人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ゆるりんのポレポレ日記 yururinp.exblog.jp

つれづれなるままに~日頃出会うこと、思うことを綴っています。


by polepole-yururin

女川の復興  NO1

朝9時前に静岡を出発。
晴天、ついこの前まで雪の帽子をかぶっていた霊峰富士は、いつの間に黒く、陽炎のように存在していた。さ〜10か月ぶりの東北へ〜。(0、13シーベルト)
女川の復興   NO1_f0215179_8494112.jpg

昼過ぎ、徐々に福島に入る。途中放射線量を計測しつつクルマを走らせる。
安達太良山・・・この山の麓にアゴラに昔きていた生徒さんがいると聞いた。
あの子たちはどうしているのだろうか・・・先生は子どもたちに思いを馳せ、安達太良山を仰ぎ見た。(1、29シーベルト。)
女川の復興   NO1_f0215179_8514539.jpg

ほんとうの「空」高村光太郎の「智恵子抄」
この空を見て千恵子は言った。
「智恵子は東京に空がないと言ふ、ほんとの空が見たいと言ふ。私は驚いて空を見る。桜若葉の間に在るのは、切つても切れないむかしなじみのきれいな空だ。どんよりけむる地平のぼかしはうすもも色の朝のしめりだ。智恵子は遠くを見ながら言ふ。阿多多羅山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ。あどけない空の話である。」
この空はあのときと同じような「ほんとうの空」なのだろうか・・・
女川の復興   NO1_f0215179_930424.jpg

夕方ようやく石巻へ
石巻は大型量販店が建ち並ぶ。
あの時はなかったお店が建ち並ぶ。チェーン店がどんどん建っていた。土地が安く売り出され、進出する企業が増えたのか・・・町の様子は様変わり〜。
石巻本来の町並みが、大きなお店が入り、静岡、関西・・・・どこにでもあるお店ばかりになった。
女川の復興   NO1_f0215179_8523657.jpg

石巻の市内から渡波地区へ〜
去年9月はまだまだ手つかずの状態だった。
だいぶん新しい店が入り込んだ。
イトーヨーカ堂ができていた。
女川の復興   NO1_f0215179_853447.jpg

ただ個人の家はまだまだ震災当時の爪痕を残す。
格差が出る被災地の現状である。
水産加工の倉庫のようなものができていた。漁業の町はまずは基盤作りだと動き始めていた。
ガレキが撤去されて、松林が見えた。ちょっと前までは見えなかった海岸線。あ・・・ここは海に近かったんだと感じる風景が現れた。
私たちが行った渡波中学は、もうガレキ置き場と化していた。
ガレキの様子が変わってきた。
大きな物が無くなり、土塀、木屑などになったからか、量が減ったように思う。
女川の復興   NO1_f0215179_8553655.jpg
女川の復興   NO1_f0215179_8565613.jpg
女川の復興   NO1_f0215179_8574039.jpg
女川の復興   NO1_f0215179_85836100.jpg

さ〜ここからが女川だ。
女川の町に入ると、ドラックストアができていた。
10ヶ月前までは、お店は女川にはコンビニが一個あったのみ。
そこに薬屋・・・ちょっと生活が便利になったんだな〜って感じた。
私もここに立ち寄って買い物。
女川の復興   NO1_f0215179_8591719.jpg

この光景は変わりなく・・・
女川の復興   NO1_f0215179_8595441.jpg

けれど町の様子は変化した。
何も無くなった。大きな建物マリンパルもつぶされ、見えるものは、横に倒された二階立てのマンションとビルのみ。
女川の復興   NO1_f0215179_90196.jpg

駅の周りも埋め立てしていた。
もう津波の爪痕もなくなった・・・ここに何があったのかもわからなくなった。
砂利が敷き詰められた土地が続く。
時折基礎だけがここは私の土地だったと主張していた。
津波で全壊した女川第二保育所も無くなった。小さな便器も水道も、表札も・・・
無くなった・・・
女川の復興   NO1_f0215179_905879.jpg

7時半ようやく女川町立運動公園に着いた。
三階建てと二階建ての仮設住宅が建ち並ぶこの場所にMちゃん家族は暮らしている。
この8個建ち並ぶ仮設のどこかに〜。(0、11シーベルト)

「先生〜!!」遠くで聞き慣れた女の子の声が聞こえた。
先生は、暗くなった仮設住宅の周りを見渡した。
「あ!先生そこそこ!Mちゃんとお母さん!」
Mちゃんとお母さんは目の前の仮設の一部屋から手を振っていた。
暖かい歓迎を受け、仮設住宅へお邪魔した。
仮設住宅は3部屋あって、台所と一体化したリビングに小さなテーブルと座布団があった。
テレビの前には、9月に撮った2番目の避難所での家族写真(撮った写真を額に入れて送ったもの)と小さなお地蔵様(私が作って九月に渡した)がちょこんと飾ってあった。
「どうぞ、座布団にどうぞ♩」お母さんは優しく言った。
そしてお揃いのガラスのコップとお揃いのお茶請けが並んでいて、そのガラスのコップには冷たい麦茶が入っていた。その横にはお皿にバームクーフェン。
「どうぞ、召し上がってください。」Mちゃんもニコニコしていた。
なんかほっとした。
「お皿等どうされましたか?」って聞いたら、支援物資をここに入るまでに集めましたってお母さんは言った。
そうでしたか・・・
そしてMちゃんに焼き上げてきたお皿を渡した。
Mちゃんは何度もお皿を触っていた。ニコニコしながらデコボコの風合いを喜んだ。
「平たいお皿には、バイキングみたいにおかずが載るね♩」ってMちゃんは言った。
「そうだね〜よかったね、M。」てお母さんも微笑んだ。
そしてお父さんが仕事から帰ってきて、隣に住むおばあちゃんもやってきて、おじいちゃんもやってきて、仕事帰りのおばちゃんも勢揃い。
みんな「あら〜よかったね!ほんといいね。」ってにこにこされていた。
おばあちゃんはスイカを切ってくださった。私にとって今年はじめてのスイカだった。
女川の復興   NO1_f0215179_10305975.jpg
すると「これも!」ってMちゃんがお母さんと作ったスイカアイスを出してくれた。
冷たくって甘くておいしいアイスキャンディーだった。
Mちゃんはずっとアイスを頬張る私をニコニコして見ていた。
「おいしいね〜ありがとうね〜♩」っていいながらちょっとうるっとなった。
今回私は今まで女川へ行って出会った方々の物語を文章にしてそれに絵を添えてまとめていた。
Mちゃん家族の事も書き綴った。その部分をMちゃん家族に見せた。
これを・・・
おじいちゃんがまず読んだ。「いいんでね〜の。そうだったかもしんね〜な。あのときはそうだった。そう思ったんだ〜。なんとかしんえ〜とな〜っ」て。
そしておばあちゃんも読んだ。おばあちゃんは大きな声で朗読し始めた。
「Mちゃん家族は・・・」最後まで読み終えて・・・「はい!いいんでないですか!」っていった。
「あのときはそうだった。洗濯物も歩いて往復一時間かけてMをおんぶして通たもんね〜。そーだった〜」ってお母さんも話出した。「そうそう、Tも言ってたね、アルコールランプで明かり灯したってね、・・・やっとここまでこれたね。この仮設に移ってからようやく落ち着いたね。」ってみんなが声を揃えて言った。「だっちゃ、だっちゃ」とおじいちゃんも言い、おとうさんもうなづいていた。
そしておじいちゃんは語り始めた。いろいろと・・・
「伝えたいと思っています。」と私は言った。そして「明日、この間言っておられた仕事場を見せていただく事はできますか?」と聞いた。
「いいよ〜、見にくっか〜。」とおじいちゃんもお父さんもうなづいて歓迎してくださった。
そして震災後通い続けた女川の復興を初めて見る事となった。
# by polepole-yururin | 2012-07-20 09:17 | 震災
女川へ大事なものを届けます!_f0215179_2144591.jpg
3月3日、宮城県の女川町からうれしい小包が届いた。
(このことはブログ2012年3月「思いがけない小包み」参照)
女川町立第一保育所に、避難していたMちゃん家族に、置いてきた陶芸用の粘土を半年経ってようやく作品になって送られてきたのだ。
箱を開けると、皿が4枚。しかしちょっとひびがいってて・・・先生はドンマイドンマイ!っていって作品を直した。子どもたちの作風を変えないように〜。
うれしく、この事をアゴラ子ども美術工場のアトリエで展示中の「女川保育者の震災」のところに、Mちゃん家族に事も書き加えて、しばらく送られてきたMちゃんとT君の作品を展示していた。
女川へ大事なものを届けます!_f0215179_215760.jpg
そして4月、一日かけてMちゃんとTくんの作品をガス釜で焼いた。
丁寧に、ゆっくり時間をかけて温度を上げて行く先生。
この皿はちゃんと使える皿にしよう!・・・先生はいった。
保育者の方はお地蔵様や動物などの置物をテラコッタ用の粘土で作った。
でもMちゃんらは、皿を作った。
女川へ大事なものを届けます!_f0215179_2131811.jpg
ふと9月に訪問した二番目の避難所(Mちゃん家族は、9月に保育所の避難所から保育再開のために出ないといけなくなり、隣の避難所に引っ越ししていた。)でのことを思い出した。
まだまだ即席の生活。コップはベークのコップのみ。皿等もなかった。(Mちゃんは11月ようやく3階建ての仮設住宅に引っ越した。)
食器か・・・とMちゃんとT君の作品をも見てあのときを思い出した。(ブログ・2011年10月「女川で出会った方たちは今・・・」参照)
女川へ大事なものを届けます!_f0215179_2134774.jpg

テラコッタは、食器に不向きである。
でも先生は、大丈夫!ちゃんと使える皿にしてMちゃん、Tくんに持って行くよ!って。
焼き上がったテラコッタの皿に青の釉薬を塗った。
女川へ大事なものを届けます!_f0215179_2121324.jpg
女川へ大事なものを届けます!_f0215179_212138.jpg
そしてできた!濃いブルーのお皿。
何をこの皿に入れるのだろうかな?大事にしてくれるかな?
この間Mちゃんのお父さんに電話をした。
お皿持って行きますね!って。
お父さんは、「あ〜!あれ・・・はいありがとうございます。MもTも昼は学校や保育所にいっていますが、夕方にはいますから♩」て。
今日は、静岡の名物をいくつか買った。
茶そば、クッキー、わさび漬け・・・etc
保育所の先生にも♩
でも、みんな日々様子は変化して、あの時元気だった人が元気をなくし、あの時落ちこんでいた人が次を見つめ・・・まだまだ女川は復興途中・・・
八年計画の行方は・・・
明日女川へいってきます〜。
# by polepole-yururin | 2012-07-16 21:02 | 震災

大きな失態。

あじさいに、ななふし!初めて見たななふし!里山の自然には発見いっぱい。
そして癒される♩
大きな失態。_f0215179_1054139.jpg

今日本にいろんなことが起きている。
東日本大震災、原発事故、台風による被害、大雨による土砂崩れ、中学のいじめ・・・
これは個々に違う問題のように見えるが、本当は皆が同じ所が原因となる。
人間が自然を壊したからだ。
自然をどうでもいい存在にしたからだ。
当たり前のようにある山、川、海、空気、植物、動物、鳥・・・それらの存在は無限だと誰かが思い、当たり前のようにいつもあり続け、無くならないもの、変わらないものと決めつけた。
明治維新から始まった成長物語は、徐々に蒸気機関車のように動き出し、一気に上り詰め、第二次世界大戦で破裂した。けれど、その破裂が反省を生み出さず、追いつけ追い越せの精神は消えなかった。
日本は戦後、アメリカに習いアメリカのような大量生産への道を邁進した。
生産性を高める事が、利だと言う方程式にのっかった。
化石燃料は使い放題、石炭、石油、そしてウラン・・・
田中角栄の日本改造論・・・田舎には未開の土地がいっぱいだ、その土地を使わない手はない・・・大きな土木建築がゴーゴーと日本であっちでもこっちでも動き出した。
山も早く大きくなり建材として使える木に変えた。
コンクリートも賢い素材だ!川をコンクリートで固めて川幅を広げ、未来都市を作ろう!
魚もちまちまとらずに大網でとったらもっと安く魚が食べれる。
牛、豚、鳥・・・生産性を高めるには、薬の投与と肥料・・・
野菜、田んぼ・・・生産性を高めるには、農協さんが教えてくれた農薬、化学肥料の散布。
科学の進歩が強き国を作り、技術力が決めてだと・・・学力アップの優秀な人材の育成。優れた人間が力を持ち、勝ち残る。競争競争・・・
戦後焼け野原の日本がここまで強き国になったのは、このようなことを押し進めたからでしょう!
日本てすごい!アジアの中の先進国、欧米諸国と対等に渡り歩いた日本だった。
だった・・・
九州の土砂災害、紀州の土砂災害・・・流れる流木は杉、檜・・・
根が張らず、成長の早い杉、檜は大量の雨を食い止める事ができず、山の地盤は緩んだ。
動物のための木々は無くなり、山から動物は下りてきた。花粉が増えた。鳥が減った・・・絶滅危惧種・・・そんな人間の思い上がり・・・
農業、漁業の生産性を高めるための選択は、海、山、農地を汚し、さらには自然を大事にしていた方々の心をないがしろにし、金で生き方を選択させてしまった。そこへ原発・・・
原発事故は、最たるもの。人災この上なく、捨てる事もできないゴミを増やし、住処を奪い・・・
海、山、自然すべてを汚染した。
マンション、アスファルト、高層ビル・・・自然を失った都会の中で、箱庭的な小さな空間で子育てする事は限界があり、そういう都会で遊び場は、建物、アスファルトなど無機質な場所である。子どもたちはそこで何をして遊ぶのだろう・・・遊んでいるのだろうか?・・・当然都会には子育てをターゲットにする企業が点在し、本能的な子育てをしている親の心を刺激する・・・習い事の行方が子どもの教育だと思ってしまう。忙しい子どもたちの唯一の息抜きはゲーム。ゲームでバーチャルな世界を体験する。子どもたちの世界は、空想の中で行き交う。
都会は核家族化がすすみ、母親に負担が行き、母親の唯一のコミュニティーは同年代の母親たちで、そのコミュニティーは、子供が大きくなるに連れて、母親さえも競争の渦。優越の心理が親を追い込み、子も追い込む。父は仕事に忙しく、教師も当然父であり、母であり・・・。
人の生活の中に自然があれば、息を抜くことが個々にできるのだろうに・・・
人間が自然からはなれて生み出すものや思想は、育みをなくし、どんどん宇宙のサイクルを壊している。人間だけ・・・日本だけ・・・組織だけ・・・家族だけ・・・自分だけ・・・視覚が狭まり見えなくなる。
もうやめよ・・・自然は言っている。
自然を知る事は、単にブームのロハスとか、森林浴とか、キャンプとか・・・スタイルだったり、レジャーだったりそんなもんじゃない。
自然って大いなる宇宙で、母で、育んでくれる大事な存在で・・・大なる教師である。
人間がやってきた事が今戻ってきてるんだ・・・
それも弱い人の所に・・・
「もののけ姫」や「ナウシカ」や「天空の城ラピュタ」や「ジャングル大帝レオ」や「火の鳥」・・・
みんなその映像を見たときは、ちゃんと心が動いているがのだろうけれど、それが今目の前の日常に起こっている事って見えていない・・・自然からはなれてしまったからだと思うのです。
生き方の見直し、今だから、今こそ!
Agora子ども美術工場は、その嘆きを35年間子どもと共に感じてきた先生が、自然から学ぶ事の大事さを伝え、実践できる場所作りのために作られた空間です。
ここは造形活動だけでなく、考える事を伝え合う大事な場所だと思います。
今時の中学、高校で教わらない事を教わる場所があるかどうか・・・
今アゴラは、静岡から滋賀へ・・・関西のこどもたちへ伝えます。
大きな失態。_f0215179_106915.jpg

滋賀県長浜市での造形教室。↑
ベースキャンプが湖北にできれば、子どもたちへ造形教室、自然教室を。そして中学、高校性へ社会について、将来についての大事な事が伝えれる講座を開く事ができれば・・・
そこにはKAMEの翼プロジェクトに賛同する方々が講師として行き来する。
本当のものの見方、感覚を大事にする生き方を子どもたちへ伝える場所ができればどうでしょう。
                        by アゴラ主宰の渋垂
# by polepole-yururin | 2012-07-14 09:03

今時の中学

教育に未来はあるのでしょうか・・・
今時の中学_f0215179_73029.jpg

最近ニュースでは、中学生のいじめから自殺へ移行した事件が取り上げられている。
特に滋賀県大津市のある中学の問題は人ごとではなかった。
7年前まで大津に住んでいたからだ。(その地区ではないが・・・)
我が息子は、中三と中一である。
ある二年生の男子が亡くなった。
人ごとではない・・・
事件があった中学は、10年前より大きなマンションが建ち並び、京都、大阪へ勤務する方が住む地域となり、東京で言えば千葉や埼玉と言った所だろうか〜。
今までの土地の人だけが住む町ではなく、いろんな方が入り交じって生活している土地となった。
私が大津にいた時も、滋賀県湖南は、様々な所が問題に上がっていた。
受験戦争の激しい所で、小学受験も当たり前で、塾は小学4年生から本格的に通い始め、塾のバスが夜の十時頃に行き交う場所だった。
息子たちはまだ小学1年生と幼稚園だったから人ごとだったけれど、ほんと子供たちは大変だと思ったものだ。
引っ越ししてから大津の友人から息子さんがいじめられていて・・・中学は私立へ行かせると言っていた。
ただこの問題は、大津市だけに限った話ではなく、ここ静岡でもある話である。
いじめられている事を例えば小学校にいっても、モンスターペアレントみたいに言葉で申し出する親をひとまとめにしてしまう傾向があり、いじめられている子も子だとか、親御さんも異常な過保護の思い過ごしだろうという事で済ませてしまっている傾向がある。その子は中学は私立へ行った。
隣市の中学に通ている子供さんとも話をこの間したら、小4年生の時にいじめられて学校を休みたかったが、親は休ましてもらえないので仕方なしに学校へ休まず行った。いじめられている事を親に言っても、私はいじめられたことがないからわからないと簡単に処理されてしまって、親にわかってもらえないとその子はいっていた。
その子は今中学一年生で、自分の意志をちゃんと持ち、それなりに中学生活をエンジョイしている。
が、中学では、当たり前のようにいじめはあるよって言っていた。
成績もほどもほどできて、運動もできる子たちが、グループになって弱い子をいじめている。
容姿が云々・・っていって。
そのいじめられた子はもう学校に来てないそうだ。
先生も何も言わないし、いじめている子は注意されないし、問題に上がらないそうだ。
・・・・・
上の息子が一年生の時、ワイシャツのボタンを全部ちぎられて帰ってきた。
「お母さん、これ直しておいて・・」とそれだけいって。
「何で?」といっても直してくれたらいいという。不信感いっぱいでそのまま様子を見ていたら、また今度は殴られたらしく、顎が開きにくいという・・・
私は「もう学校に言うよ!おかしいよ!」っていったら逆に息子にすごい剣幕で怒られた。主人も男の子同士の事だから・・と息子の主張に同意していたが、母親の勘だろう、私は担任の先生に話した。
するとその子の担任と交えて話があり、その後息子への暴力はなくなった。
いじめは子供同士の話だけではない。そういう感じでほっておいても、解決できないくらいに子供たちは、他への思いやる気持ちも、その子がどんな気持ちでいるのかも想像できなくなっている。
だから先生も見つけられず、・・・その子のSOSは消えてしまう。
でも学校の問題は子供の未熟さだけではなく、教師の問題もある。
中学が荒れてくると、先生方は、一年生から不良の眼を摘む行為を強行する。
ちょっとでも反応が悪い子を怒鳴り、統制する。
ある子は、たまたま下を向いていた。それを先生は睨んでた。その行為に子供たちが反応し、睨まれた子は、ばつが悪く苦笑いした。
その行為が、先生の気持ちを逆なでさせた。「外に出ろ!」と先生はいい、その子は廊下に閉めだされ、「教師をなめてんじゃない、笑ってんじゃない!」っていって履いていた靴をその子に投げつけた。
幸いその子に靴はあたらなかったが、その声は、教室中に聞こえた。
その子は、怖さに震えた。先生はその子の担任にちゃんと注意したと言ったそうだ。
その行為を聞き、親御さんは、先生に言うというと、その子は「やめて!先生に何かされるから」と親に激怒したという。
その親は校長宛に手紙を書き「教育者の恫喝である事。生徒と教師の間の信頼感の欠除である。」といったが、その後なんの反応も学校からはなかったそうだ。
そのことをある中学教師だった方に話したそうだ。すると「教師も人間ですから・・・一年から不良の芽を摘み取るのが肝心ですし・・僕も昔殴っていた方で・・もう時効ですが・・・」と返ってきたそうだ。
昨日中学の参加会と懇談会があったが、大津の話はいっさいでないし、保険委員会でも放射能の問題を話す事さえない。
学校では震災、放射能の話もでないし、社会情勢を伝える機関ではなくなった。
つまりすべて他人事であり、マニュアル通りのテーマで遂行するのみの学校の存在である。今時の中学_f0215179_924326.jpg
授業中に寝ている子がいても放置し、いじめがあっても子が先生に言えない状況が知らず知らずにある。
誰も子供の見方をしてくれないし、先生も強い子の見方である。
成績のいい子は学校では生きやすく、成績の悪い子は、生きにくい・・・運動のできる子は生きやすく、運動のできない子は生きにくい。
ブラジルの子は学校に来なくなったケースが多く、違和感を持つ子供たちも学校へ行けなくなった。
学校体勢は、今ここまできている。
もう競争社会はこんなにも子供たちを蝕んで、その子どもたちが大人になって社会をつくるわけだから、思いやり、優しさが消え去る利己的な社会になっている事は言うまでもない。

奈良吉野 金剛蔵王大権現
ー荒々しいその姿は、乱れた世から人を救うための仮のお姿。本来は柔和な仏様である。全身を染める青は慈悲の表れ。厳しいお顔をじっと見つめれば、不思議と親しみがわいてくる。—

# by polepole-yururin | 2012-07-11 07:30 | 子供たち

故郷

           大飯町大島の海岸
故郷_f0215179_10205837.jpg

6月23日福井県大飯郡おおい町へ行った。
わが故郷の近隣の町。知っているようで知らない町。
知る事から始まる・・・その思いから大飯の町をゆっくり見た。
原発、原発の立地する大島、デモを試みるベースキャンプ。
いろんな大飯の表情があった。
帰り際、小説家の水上勉がこの土地の出身だというチラシを見た。
私の実家に近い滋賀県の余呉湖を舞台にした作品に「湖の琴」がある。
震災前に我が故郷の昔を思い、小説の中の描写と重ねながら余呉湖周辺とその小説に出てくる木之本町の西山と大音を歩いた。(私のブログ 2011年1月「湖の琴」参照)
その時、私の知らない故郷の昔の面影を辿る大事な作業のような気がしたものだった。
そして大飯から帰って早々に「故郷」(著者・水上勉・集英社文庫)という小説を買い求め読み始めた。
故郷_f0215179_932145.jpg
1)まだ、その頃はこの若狭地方に原発などはなかった。二十二年も前なら、あるいは、建設の調査段階だったかもしれないが、こんなに十一基もの発電所が数珠つなぎに隣接しようなど予想もできなかった。大きな騒ぎもあった。大飯町などは手続きに町長の独断があったと言ってリコールまで行い、その町長を退陣させて、次の町長がたった。そして、原発は建設された。山は削られ、半島に橋はかけられ、町役場や公共施設は鉄筋となり、道路は楚辺てアスファルトとなり、山には何百本もの送電線が林立して、夜でも皓々と照らす運動場をもつ小学校では、老人婦女らのあそぶ、ゲートボールや、バレーボールの球技場ができた。そろそろ15年もたったかな、原発ができてからー。

2)若狭湾や宮津湾一帯の農家に伝わる「田分けの話」はかなしみを超えた笑いばなしであった。昔から子供がたくさん生まれる農家は、女の子だと喜んで都会へ奉公へだし、都会人に縁組させた。農地に限界のある経済条件に何らかの足し前を夢見る事ができたのである。女でなく次、三男だと村に地場産業がないため、田分けをして分家させる事を嫌った。奉公へ出してどこか老舗にのれん分けでもねらわせて、本家長男の経済援助に役立たせるか、村に残って、百姓がしてみたいという次、三男がいても田を分ける事は「たわけ者」になるといって、つまり本家となる家の屋敷や田地や山林を、少しでも失う事は、先祖に対する不孝につきた。たとえ、それが、血を分ける弟であっても。この習慣は頑固に守られ、同じ村で分家して暮らす弟はいなかった。どこかへ養子に行ったのをのぞいてほとんどが、手職を覚えて自立するしか道はなかった。・・・

「こういう話があるよ。東唐崎では金持ちの仲間入る家は、たいがい長男を師範の二部にいれたもんだ。師範は月謝が安いし、卒業すれば、就職は国が補償してくれる。先生先生といって村の連中も尊敬してくれる。それが、財産家の勘六といわれた兄たちのえらんだエリート道だった。
その兄に弟が生まれる。すると金持ちはこの弟を奉公に出さずに師範へ入れる。卒業すると、この弟も訓導の資格をもつ。就職は確実だから、養子の口が必ずかかる。同格くらいの金持ちで、女の子しかいない家が一番ほしがったのだ。師範出は言ってみれば養子のパスポートだ。金持ちは娘の婿に先生を迎え、婿に給料をとらせ、農業は娘にやらせる。・・・この金持ちの師範好きは、村の教育界を牛耳ることとなった。停年が来て、退職金をたんともらった教師は、最後の校長職を退くと、村の助役になったり、村長になったりして、政治にのりだすのがいる。最後まで、税金を食らう事にしがみついたんだ。つまり師範出身の教育者が、村の大事なところを掌握してしまうのだ。一方貧乏人の方は、長男はなけなしの財産を守らねばならぬから、次、三男を奉公に出して、村で小作をして働いた。つまり長男の分布図はこの二つの生き方に分かれていたんだよ。ところがこのやり方が、根本からゆらいできた。都会に出てきた弟たちがそれなりに蓄積をもって、村へ帰り始めた。都会にいたからセンスもある。技術もある。宮津の国道近くでドライブインを出して成功しているのが次男だ。・・・・
長男のやらなかった地場産業をおこしたんだ。弟の方が頑張っているわけ。政治家になった長男たちは、たわけになるのがいやだと、自ら過疎を促進してきて、都会化の進行に遅れをとったから、中央からくる企業を迎えて開発を夢見だした。つまり弟たちのように、自分で汗を出した資金をもたないので人の金をあてにする。また財産をけずりたくないから、企業をよぶことになった。弟たちに負けない事をやろうと企んだのが原発だよ、きっと。
若狭のことは知らないが、わしらの丹後の久美浜もいま、騒いでいる。原発設置反対、賛成の争いは長男と弟らの喧嘩だ。兄たちは大きなバクチをはじめた。でっかい事をやれ。兄たちはやけになった。過疎だ、都市化のおくれだのいうけれど、実は自分たちでその遅れを奨励してきたくせして、今泣いているんだよ。日本の女性はこの事をよく見ているような気がする」

3)「百姓の子は百姓させておけばよいものを、上級学校へゆくことばかり学校で教え込まれたから、ミソもクソの都会へ出て、短大でも出ん事には嫁入りができんと勝手にきめて、みんな高校からひろみへいった。親はそのおかげで、段々田んぼを這いずり回って働いても米が足らんので、久保田や井関からローンで機械買うて、能率よう米をとるようになったが、実は火の車。そのために、田んぼにふんだん農薬まいて、土を毒だらけにして稼ぐようになった。そうせねば、月謝や下宿代がはらえなんだ。それでようよう、娘を卒業させたけんども、肝心の娘はの頭は、村に戻って働くより、都会で栄耀な暮らしがしたいというふうになった。冬の浦のどこを探しても若い娘がおらんようになったのは、教育のせいや。その上、おそろしいことに、農薬で汚した段々田んぼからこぼれてくる毒水で、海の藻場が死んだ。魚も寄ってこん磯になってしもうた。そこら中に小鯛が泳いどった磯も死んでしもうては、ただで食えた魚もゼニ出して買わんならん・・・」
巡査は確かに直造のいうとおり、段々田んぼに農薬をふんだんに巻けば、磯へ流れ込む汚染水で藻場は枯死し、小鯛やさよりや貝類が減ってしまったのはわかるけれどそのかわりに、村人たちは、機械や合成肥料のおかげで人手不足を解消し、若者らは原発へ出稼ぎに出て、地場産業のなかったこの村の暮らしをいくらか近代化させたのだった。むかしのように、農薬も肥料もつかわないでいたら、反たんあたりの収入も半減だ。とても娘を短大へなどいれる力はなかろう。直造の意見は一面妥当だけれど、どこか昔のまま娘を教育もさせず、牛や馬を使って百姓しておけば、娘も都会へとられないで住んだという論法らしいが、・・・麦とっても、大根とっても農協が買うてくれる値段はカナダの半分値に負ける。とても食うていけん。人糞汲み取ってって子もおらん。そやから農薬もチッソ肥料も使わな米も麦もとれん。すれば海が汚れて藻場がなくなる。仕方ない時代や。」
「そのしかたないという生き方がまちがいや。藻場を殺せば魚が育たん。サザエもイカもとれんとわかっておって農薬を垂れ流す。近海魚で食えんようになったのは、声も違いやという百姓の根性がそうさせとるのや。しかたがないのは何のためや。手を汚さず収入をはかりたいためやろ。つまり背中まで曲げて草取りせんでも、除草剤、防虫剤まいて住まそうという根性やからやろ。それで海を汚しとるが。わしは、磯で魚をとれん村にしてしもた親らが、原発の日雇いで稼いで、アスパラやズッキーニやイワシの缶詰をスーパーで買うて生きとる変わりようをアホやというとるんや。」
「時代の流れというもんがあろうが日本中がそういうことをやって、ここまで成長したのや」
「成長・・・」
「成長やないぞ・・・魚も住まん磯に荒廃させといて何が成長かいな。これは退化や。・・・」
和尚が言った「原発は大勢の都会人を連れてきて、町の経済発展に大きな力をくれたが、古いしきたりというか、美風というか、不便だったために、大事にしてきた村人たちの独特のおおらかさを、根こそぎ変えてしまいよった・・・変わったのは村の衆やから、原発ばかりが罪があるとはいえんが、古くから都会に憧れる気風を持っていた村の衆に、どっぷりと目の前へ、消費文化を持ち込んで誘いよせたからうちの静江までもが、和尚さん電子レンジ買うてくれという事になった。生活というものがまるっきり変わったので、人心も変わって不思議はない。そやから・・・もどってこんのや。」
「そらまあ、そうや、和尚さん。原発賛成、反対、中間と議論はいつまでも解決のついたことがないんやさけ。みな原発のお世話になって生きとる下請け企業の社員やということや。利害は一致しとる。この原発を持った以上は、もう原発の下で生かされてもろてる仲間になったんやで。」
「原発のおかげで親にゼニがはいって、兄弟がもどる。その分け前をせがんで兄と弟が喧嘩の末刃物沙汰を起こす家はこの冬の浦にはないわな」

4)正直なことを言わせてもらえば、先任地の名田庄が山奥で京都府境の村であったために、原発中心の町のような動揺はなかった。盆踊りも秋祭りも老人子供の集まりで、毎年、きめの細かい行政の指導もあってにぎわっていた。人情も蚕をやったり、紙をすいたり、さほどの量産の強いられず、家内での生活を続けている家もあった。・・・
名田庄ではのどかな山村生活を味わったけれど、それは言ってみれば現代離れした桃源郷のようなところで、変貌の激しい原発設置の町に背を向けた村といえた。背を向けたといっても村は隣接地として補償金をもらって、それなりの近代化の事業もすすめているから原発で恵まれていた。
高浜の町内に属するけれど、昔から地形の上で峠を隔てた西海岸でもあるために隔離された不便さと不便なことの利点があった。だが、村のどの家もが、原発を離れての生活ではなかった。長男は下請け会社に出た。細君も出ている所があった。家にいるのは年より夫婦だが、半農半漁の生業は嫁の役にまわり、働き盛りの男衆は、原発の増設現場から疲れて帰ってくる。七曜日は夕方まで寝ているといった風景がどこでも見られた。原発行きを嫌って別の出稼ぎをたくらむ長男夫婦は近くにできたドライブインや関連産業の日雇いにでた。相手が原発でなくても、原発のおかげで、どうやらやってゆける中小企業にしがみつく足下は、直接原発にゆくのと似たような仕事と言えたかもしれない。それで村に活気があるかと言えばそうでもなく、どこか沈みがちな、・・・

5)「さっきの美浜の原発の話ですけど、・・都会に出ている次男、三男の方たちにも歓迎されているわけですか」
「都会で仕事もうまくいってない人らには原発さまさまですよ。かえって働ける口ができたことになりますからね」と姉は言った。
「それとお父さんがもらった補償金の分け前にあずかりたい、という欲もあるんでしょうね」
「そんなに補償金がもらえる訳なんですか」
「うちらには関係ないけど道路ができて、山が削られて、まるで、今まで何もなかった半島が、車の走れるように様変わりするんですから、山もちさんらには大金が入りますよ。道路に田をとられた人ももちろんですし、それに、何号炉もの工事が続くとよそからきた作業員さんらの宿舎が何百棟も建って、この人らの弁当をこしらえるだけでも大変でしょ。いろいろな業者も入っているようだけれど、かりに田んぼが作業宿舎の敷地になっただけで大金をくれるそうです。収穫の悪かった谷の汁田が、一反五百万で買い上げられ、お百姓さんも頭がどうかなりますわよ。それに山にやって、鉄塔がいっぱい建って、送電線が走るでしょ。あれなんかも、テニスコートくらいの広さの木を伐って鉄塔をつくるらしいけど、いいお金がいただけるってきいたわ。寝ているうちにヘリコプターが飛んできて、幸福のビニール袋を落としていってくれるんやもん」
「ビニール袋を空から落として場所をきめはんのやがな」
「山のてっぺんというもんは、表と裏に分かれているやろ、持ちぬしも違う。それでビニールのひかかった木によって、うちの木や、いやそうでない、うちの木やと争いが起きたという話もあるほど、山主さんにはいい話やろ。高い山のてっぺんにビニール袋が落ちてきただけで、何百万ものお金が入るんやさけ」
「今まで仲良かった家が、幸福の袋が落ちた木の所有争いで仲違いになった話もあったんやて」
「太郎次さんは、原発の送電線が四本も建ってほくほくよ。光二郎兄さんから安い値段で買った山に四本も電柱が建ったんやさけ。二千万円以上の金がぽろりと入ったいうて。なあ、お母さん」
・ ・・・・
「あれがなんやか苦労して山を売り、田を売りして・・あんじょうゆかなんだのに、原発さんは会社がおおきいおさけ、成功してはる」
「お兄さんは、どういう仕事をなさったんですか」
「赤土工場、うさぎ飼い、鳥がい、ミミズの養殖、・・とにかく地場産業をつくらにゃ村は生きてゆけんいうて・・思いつくもん皆投資して、結局はたらいた人にゼニ払うだけで財産フイにしてしまはったんです」
「いろいろ子供の頃から聞いた話ですが、やはり都会から、いろいろ山師がきて、結局は、大事にしている山や畑をとられてしまうというのがオチのようでした。・・どうしても原発という、新しい資本が入ってこなければならないような経済基盤があったことがわかりますね」
「敦賀から舞鶴までにいま、11基ができて、大勢の人が働いています」と○子はいった。
「おかげさんで、光二郎のような中小企業やないさけ、給料もちゃんとくれはります」
「結局は、大きな者に巻かれた方がトクやという考えになってしまたんでしょ」と富美子がいった。
「自分らで一生懸命地場産業をおこして、それを続けてゆくという努力がたりなかったんでしょ」
「いくら努力しても、力がないさけ、頭のええ人にだまされてきたんやろ」と○子がいった。
「危険な原発を迎えて食わんならんようなくにはあかん・・・」

6)「敦賀から、美浜それから大飯、高浜・・・建設中のをあわせると15もあるっていってたよな。」敦賀から舞鶴の間の狭い海岸沿いに・・・スリーマイルのような事が起きたらどうするんだ・・・やっぱり気になるよ」
「原発はもうできてしまっているんやからしかたないですよ」と富美子はいった。
「スリーマイルのような事故はめったに起きないから」
「日本の原発とは構造も違う・・・ということだが、スリーマイルのは同じ構造だったよね」
「・・・・」
たしかに夫のいうように、スリーマイルで起きたような事故が、近くの原発で起きれば、住民は避難しなければならない。ところが、帰国して会う人ごとにその避難先がどこか訪ねても、ここにあるという返事はなかった。
(そんな事故なんて起きないよ)(起きてしまえば、あんたたちの村だけじゃなく、京都も名古屋もいっしょだよ。どこにいたって同じさ。この狭い国ににげてゆくところなんかありゃしない)

そこにたたずんでいつまでも眺めていて、いい気分のものではなかった。巨大な白灰色の原子炉ドームをつつむ松や椎の森と、山の麓がちょうどスカートをめくられたみたいに、地層を露出している風景が見えるだけであった。静かなその工事現場の遠景に、かえって無気味なものが感じられた。
孝二も富美子も息をのむしかなかった。
「それでは行きますか」と運転手はいった。
「事実というものは、みな、こんなふうに静かなものなんだよ」ぽつりと孝二がいった。
「きっと戦争だってこんなんだったかもしれんな。歴史は皆見た人の眼と心にあるもんだ。いろいろ勝手な想像をふくらませてさ。まるで原発工事場といえば、恐ろしい修羅場のように思ってきたが、大自然の中で、人の作るものはどんな先端技術の大きなものでも小さくなってるな」
「つまり、恐ろしいものは、恐ろしいような顔をしていないということかもしれん。いいところを電力会社は眼を付けたともいえる」
「そうですよ、お客さん。大飯の方だって、そうですよ。内陸側からは、ちっとも見えない岬のとっ先にありますから。世間でいくらやかもしくいったって、地元はそう騒いでないんですよ。一見平穏でしょう。ずいぶん原発ができ、景気もいいですからね。みんなよろこんでいますよ」と運転手はいった。

「健吉は、文明のお化けだといっていたっけ。たしかにお化けのある棺桶は大きすぎる」
「・・・・」
「でも棺桶はひどいわよ。原発が働くおかげで、みんな贅沢にくらせて、この国の成長はあるんだものね。」
「たしかに、世界がびっくりするほどの急成長だよ。こういう記録は、今世紀でもめずらしいことかもしれん。戦争で負けた国が、大人も子供もみんな手をあげて降参したはずの国が、アメリカや西ドイツと方並べる経済力をもったんだ。このスピードの速さには、無理がなかったとはいえないぜ。どこかで欠けたところがある。賭けに勝ったからいいようなものだけど、もしさかめに出たらそれは急転直下成長どころでなく、衰弱だ。僕には狭い若狭に15基も原発があつまるっていうのは、少し無理がある気がするな。そうじゃないか、君は安全なものならいいでしょう、というけれど、誰も完全に安全なものだとはいっていないんだ。日本では起きないが、よそでは起きているんだ。事故を見てて、謙吉はお母さんの国は不孝だといっている。・・・」
「それに廃棄物をいっぱいだすが、今の所その捨て場所が国内にはない。どこにも受取手がない放射能まじりのゴミを15基もある原発は将来どこへ捨てるのだろう。ぼくはさっきの白い巨大なドームに二つの火が燃えていて、さらに、山を削った場所に二基が建設中だったのを見てたら、この四基が使い古されて・・・600年後どうなるのかを確かめて見る人は現在、この世にはいない事を思った。それで人のいないのが気味悪くなった。・・・」

以上 「故郷」著者水上勉 集英社文庫 から抜粋—

原発が立地している村は、このようなことが起きているのだろう。故郷_f0215179_10223423.jpg
この原発問題は、今始まった訳ではない。
戦前からある社会の封建的な気風というのか、貧困と富・・・富を得るにはどうするか・・・お金と地位、名誉の獲得。
貧困故の無知。
目先だけにとらわれた生き方の連続性・・・
私の先祖たちも同じような事をしてきたのだ。そしてその流れの中に自分もいて、その中で選択して生きてきた。
人は自分しかみれない生き物なのか、あまりにも視野が狭い。
その視野の狭さが、人間にはどうしようもできない燃える棺桶・・・核・原発を所有してしまった。
この小説は、1994年に出版されたもので、水上勉は出版の10年前に既に書き記していたというが、これを世に出すことをためらっていたようだ。
でもこの小説の中では、日本では事故は起こっていない・・・でも想像しているどうしようもない事を。
その事が今福島で起きている。
波江、大隈、相馬、双葉・・・立地する自治体は故郷を失った。
飯館、渡利、南相馬・・・そして福島市、いわき市、近隣の町の漁業、農業・・第一産業は大きな痛手をうけている。痛手というよいも取り返しのつかない事にしてしまった。
水上勉は今あの世でどう思っているのだろう。
警告している・・・
その警告を無視し、こんな惨事が起こっているのにも「原発がなかったら経済は立ち行かず、仕事もなくなり、給料も下がる。そういう事が抗議者には伝わっていない」と官僚スタッフが言った。そして官邸を取り囲む抗議の声を聞く事もなく、決断する政治といい、原発を押し進める。
「人災」だと国会の事故調査委員の黒川氏は言った。
にもかかわらず大飯原発は、安全対策を怠り、無理に稼働した。故郷_f0215179_10255888.jpg
地震の対応がなされていない・・という結果が出たのに、活断層の調査もせず、津波対策、メルトダウン阻止の装置も作らず、・・・
野田総理の責任は、内閣総理大臣の任期のみ有効であり、それ以後は責任は皆無。
この政治はおかしい。やったもの勝ちの後の始末を何も思考しない政策の結果が、海、山の自然を壊し、細々慎ましく誇りを持って生きてこられた人々の生活の価値を重んじず・・・

この原発の話は、重い話ではない、他人事でもない、私たち一人一人の生き方に行き着く話である。
今大飯町の方々がこの40年どんな気持ちで生き、その原発誘致される前の生き方がどうだったのか・・・それを知り、日本を知りましょう。
# by polepole-yururin | 2012-07-07 09:49 | 原発