朝9時前に静岡を出発。
晴天、ついこの前まで雪の帽子をかぶっていた霊峰富士は、いつの間に黒く、陽炎のように存在していた。さ〜10か月ぶりの東北へ〜。(0、13シーベルト)
昼過ぎ、徐々に福島に入る。途中放射線量を計測しつつクルマを走らせる。
安達太良山・・・この山の麓にアゴラに昔きていた生徒さんがいると聞いた。
あの子たちはどうしているのだろうか・・・先生は子どもたちに思いを馳せ、安達太良山を仰ぎ見た。(1、29シーベルト。)
ほんとうの「空」高村光太郎の「智恵子抄」
この空を見て千恵子は言った。
「智恵子は東京に空がないと言ふ、ほんとの空が見たいと言ふ。私は驚いて空を見る。桜若葉の間に在るのは、切つても切れないむかしなじみのきれいな空だ。どんよりけむる地平のぼかしはうすもも色の朝のしめりだ。智恵子は遠くを見ながら言ふ。阿多多羅山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ。あどけない空の話である。」
この空はあのときと同じような「ほんとうの空」なのだろうか・・・
夕方ようやく石巻へ
石巻は大型量販店が建ち並ぶ。
あの時はなかったお店が建ち並ぶ。チェーン店がどんどん建っていた。土地が安く売り出され、進出する企業が増えたのか・・・町の様子は様変わり〜。
石巻本来の町並みが、大きなお店が入り、静岡、関西・・・・どこにでもあるお店ばかりになった。
石巻の市内から渡波地区へ〜
去年9月はまだまだ手つかずの状態だった。
だいぶん新しい店が入り込んだ。
イトーヨーカ堂ができていた。
ただ個人の家はまだまだ震災当時の爪痕を残す。
格差が出る被災地の現状である。
水産加工の倉庫のようなものができていた。漁業の町はまずは基盤作りだと動き始めていた。
ガレキが撤去されて、松林が見えた。ちょっと前までは見えなかった海岸線。あ・・・ここは海に近かったんだと感じる風景が現れた。
私たちが行った渡波中学は、もうガレキ置き場と化していた。
ガレキの様子が変わってきた。
大きな物が無くなり、土塀、木屑などになったからか、量が減ったように思う。
さ〜ここからが女川だ。
女川の町に入ると、ドラックストアができていた。
10ヶ月前までは、お店は女川にはコンビニが一個あったのみ。
そこに薬屋・・・ちょっと生活が便利になったんだな〜って感じた。
私もここに立ち寄って買い物。
この光景は変わりなく・・・
けれど町の様子は変化した。
何も無くなった。大きな建物マリンパルもつぶされ、見えるものは、横に倒された二階立てのマンションとビルのみ。
駅の周りも埋め立てしていた。
もう津波の爪痕もなくなった・・・ここに何があったのかもわからなくなった。
砂利が敷き詰められた土地が続く。
時折基礎だけがここは私の土地だったと主張していた。
津波で全壊した女川第二保育所も無くなった。小さな便器も水道も、表札も・・・
無くなった・・・
7時半ようやく女川町立運動公園に着いた。
三階建てと二階建ての仮設住宅が建ち並ぶこの場所にMちゃん家族は暮らしている。
この8個建ち並ぶ仮設のどこかに〜。(0、11シーベルト)
「先生〜!!」遠くで聞き慣れた女の子の声が聞こえた。
先生は、暗くなった仮設住宅の周りを見渡した。
「あ!先生そこそこ!Mちゃんとお母さん!」
Mちゃんとお母さんは目の前の仮設の一部屋から手を振っていた。
暖かい歓迎を受け、仮設住宅へお邪魔した。
仮設住宅は3部屋あって、台所と一体化したリビングに小さなテーブルと座布団があった。
テレビの前には、9月に撮った2番目の避難所での家族写真(撮った写真を額に入れて送ったもの)と小さなお地蔵様(私が作って九月に渡した)がちょこんと飾ってあった。
「どうぞ、座布団にどうぞ♩」お母さんは優しく言った。
そしてお揃いのガラスのコップとお揃いのお茶請けが並んでいて、そのガラスのコップには冷たい麦茶が入っていた。その横にはお皿にバームクーフェン。
「どうぞ、召し上がってください。」Mちゃんもニコニコしていた。
なんかほっとした。
「お皿等どうされましたか?」って聞いたら、支援物資をここに入るまでに集めましたってお母さんは言った。
そうでしたか・・・
そしてMちゃんに焼き上げてきたお皿を渡した。
Mちゃんは何度もお皿を触っていた。ニコニコしながらデコボコの風合いを喜んだ。
「平たいお皿には、バイキングみたいにおかずが載るね♩」ってMちゃんは言った。
「そうだね〜よかったね、M。」てお母さんも微笑んだ。
そしてお父さんが仕事から帰ってきて、隣に住むおばあちゃんもやってきて、おじいちゃんもやってきて、仕事帰りのおばちゃんも勢揃い。
みんな「あら〜よかったね!ほんといいね。」ってにこにこされていた。
おばあちゃんはスイカを切ってくださった。私にとって今年はじめてのスイカだった。
すると「これも!」ってMちゃんがお母さんと作ったスイカアイスを出してくれた。
冷たくって甘くておいしいアイスキャンディーだった。
Mちゃんはずっとアイスを頬張る私をニコニコして見ていた。
「おいしいね〜ありがとうね〜♩」っていいながらちょっとうるっとなった。
今回私は今まで女川へ行って出会った方々の物語を文章にしてそれに絵を添えてまとめていた。
Mちゃん家族の事も書き綴った。その部分をMちゃん家族に見せた。
これを・・・
おじいちゃんがまず読んだ。「いいんでね〜の。そうだったかもしんね〜な。あのときはそうだった。そう思ったんだ〜。なんとかしんえ〜とな〜っ」て。
そしておばあちゃんも読んだ。おばあちゃんは大きな声で朗読し始めた。
「Mちゃん家族は・・・」最後まで読み終えて・・・「はい!いいんでないですか!」っていった。
「あのときはそうだった。洗濯物も歩いて往復一時間かけてMをおんぶして通たもんね〜。そーだった〜」ってお母さんも話出した。「そうそう、Tも言ってたね、アルコールランプで明かり灯したってね、・・・やっとここまでこれたね。この仮設に移ってからようやく落ち着いたね。」ってみんなが声を揃えて言った。「だっちゃ、だっちゃ」とおじいちゃんも言い、おとうさんもうなづいていた。
そしておじいちゃんは語り始めた。いろいろと・・・
「伝えたいと思っています。」と私は言った。そして「明日、この間言っておられた仕事場を見せていただく事はできますか?」と聞いた。
「いいよ〜、見にくっか〜。」とおじいちゃんもお父さんもうなづいて歓迎してくださった。
そして震災後通い続けた女川の復興を初めて見る事となった。
晴天、ついこの前まで雪の帽子をかぶっていた霊峰富士は、いつの間に黒く、陽炎のように存在していた。さ〜10か月ぶりの東北へ〜。(0、13シーベルト)
昼過ぎ、徐々に福島に入る。途中放射線量を計測しつつクルマを走らせる。
安達太良山・・・この山の麓にアゴラに昔きていた生徒さんがいると聞いた。
あの子たちはどうしているのだろうか・・・先生は子どもたちに思いを馳せ、安達太良山を仰ぎ見た。(1、29シーベルト。)
ほんとうの「空」高村光太郎の「智恵子抄」
この空を見て千恵子は言った。
「智恵子は東京に空がないと言ふ、ほんとの空が見たいと言ふ。私は驚いて空を見る。桜若葉の間に在るのは、切つても切れないむかしなじみのきれいな空だ。どんよりけむる地平のぼかしはうすもも色の朝のしめりだ。智恵子は遠くを見ながら言ふ。阿多多羅山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ。あどけない空の話である。」
この空はあのときと同じような「ほんとうの空」なのだろうか・・・
夕方ようやく石巻へ
石巻は大型量販店が建ち並ぶ。
あの時はなかったお店が建ち並ぶ。チェーン店がどんどん建っていた。土地が安く売り出され、進出する企業が増えたのか・・・町の様子は様変わり〜。
石巻本来の町並みが、大きなお店が入り、静岡、関西・・・・どこにでもあるお店ばかりになった。
石巻の市内から渡波地区へ〜
去年9月はまだまだ手つかずの状態だった。
だいぶん新しい店が入り込んだ。
イトーヨーカ堂ができていた。
ただ個人の家はまだまだ震災当時の爪痕を残す。
格差が出る被災地の現状である。
水産加工の倉庫のようなものができていた。漁業の町はまずは基盤作りだと動き始めていた。
ガレキが撤去されて、松林が見えた。ちょっと前までは見えなかった海岸線。あ・・・ここは海に近かったんだと感じる風景が現れた。
私たちが行った渡波中学は、もうガレキ置き場と化していた。
ガレキの様子が変わってきた。
大きな物が無くなり、土塀、木屑などになったからか、量が減ったように思う。
さ〜ここからが女川だ。
女川の町に入ると、ドラックストアができていた。
10ヶ月前までは、お店は女川にはコンビニが一個あったのみ。
そこに薬屋・・・ちょっと生活が便利になったんだな〜って感じた。
私もここに立ち寄って買い物。
この光景は変わりなく・・・
けれど町の様子は変化した。
何も無くなった。大きな建物マリンパルもつぶされ、見えるものは、横に倒された二階立てのマンションとビルのみ。
駅の周りも埋め立てしていた。
もう津波の爪痕もなくなった・・・ここに何があったのかもわからなくなった。
砂利が敷き詰められた土地が続く。
時折基礎だけがここは私の土地だったと主張していた。
津波で全壊した女川第二保育所も無くなった。小さな便器も水道も、表札も・・・
無くなった・・・
7時半ようやく女川町立運動公園に着いた。
三階建てと二階建ての仮設住宅が建ち並ぶこの場所にMちゃん家族は暮らしている。
この8個建ち並ぶ仮設のどこかに〜。(0、11シーベルト)
「先生〜!!」遠くで聞き慣れた女の子の声が聞こえた。
先生は、暗くなった仮設住宅の周りを見渡した。
「あ!先生そこそこ!Mちゃんとお母さん!」
Mちゃんとお母さんは目の前の仮設の一部屋から手を振っていた。
暖かい歓迎を受け、仮設住宅へお邪魔した。
仮設住宅は3部屋あって、台所と一体化したリビングに小さなテーブルと座布団があった。
テレビの前には、9月に撮った2番目の避難所での家族写真(撮った写真を額に入れて送ったもの)と小さなお地蔵様(私が作って九月に渡した)がちょこんと飾ってあった。
「どうぞ、座布団にどうぞ♩」お母さんは優しく言った。
そしてお揃いのガラスのコップとお揃いのお茶請けが並んでいて、そのガラスのコップには冷たい麦茶が入っていた。その横にはお皿にバームクーフェン。
「どうぞ、召し上がってください。」Mちゃんもニコニコしていた。
なんかほっとした。
「お皿等どうされましたか?」って聞いたら、支援物資をここに入るまでに集めましたってお母さんは言った。
そうでしたか・・・
そしてMちゃんに焼き上げてきたお皿を渡した。
Mちゃんは何度もお皿を触っていた。ニコニコしながらデコボコの風合いを喜んだ。
「平たいお皿には、バイキングみたいにおかずが載るね♩」ってMちゃんは言った。
「そうだね〜よかったね、M。」てお母さんも微笑んだ。
そしてお父さんが仕事から帰ってきて、隣に住むおばあちゃんもやってきて、おじいちゃんもやってきて、仕事帰りのおばちゃんも勢揃い。
みんな「あら〜よかったね!ほんといいね。」ってにこにこされていた。
おばあちゃんはスイカを切ってくださった。私にとって今年はじめてのスイカだった。
すると「これも!」ってMちゃんがお母さんと作ったスイカアイスを出してくれた。
冷たくって甘くておいしいアイスキャンディーだった。
Mちゃんはずっとアイスを頬張る私をニコニコして見ていた。
「おいしいね〜ありがとうね〜♩」っていいながらちょっとうるっとなった。
今回私は今まで女川へ行って出会った方々の物語を文章にしてそれに絵を添えてまとめていた。
Mちゃん家族の事も書き綴った。その部分をMちゃん家族に見せた。
これを・・・
おじいちゃんがまず読んだ。「いいんでね〜の。そうだったかもしんね〜な。あのときはそうだった。そう思ったんだ〜。なんとかしんえ〜とな〜っ」て。
そしておばあちゃんも読んだ。おばあちゃんは大きな声で朗読し始めた。
「Mちゃん家族は・・・」最後まで読み終えて・・・「はい!いいんでないですか!」っていった。
「あのときはそうだった。洗濯物も歩いて往復一時間かけてMをおんぶして通たもんね〜。そーだった〜」ってお母さんも話出した。「そうそう、Tも言ってたね、アルコールランプで明かり灯したってね、・・・やっとここまでこれたね。この仮設に移ってからようやく落ち着いたね。」ってみんなが声を揃えて言った。「だっちゃ、だっちゃ」とおじいちゃんも言い、おとうさんもうなづいていた。
そしておじいちゃんは語り始めた。いろいろと・・・
「伝えたいと思っています。」と私は言った。そして「明日、この間言っておられた仕事場を見せていただく事はできますか?」と聞いた。
「いいよ〜、見にくっか〜。」とおじいちゃんもお父さんもうなづいて歓迎してくださった。
そして震災後通い続けた女川の復興を初めて見る事となった。
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by polepole-yururin
| 2012-07-20 09:17
| 震災