あの日も入道雲が空に盛り上がり、お盆だというのにまだ夏の暑さを告げる蝉の声が聞こえていたね〜。
今日はお盆。
実は我が家は、今年は初盆だった。
といいつつ私の実家は浄土真宗なので、お盆は、身内だけでお墓に参って、お寺さんが家に来られてお経をあげるくらい。
でも私の嫁いだ家の宗教は、禅宗で、曹洞宗である。
またそのお寺さんと今までなんも関係がなかったものだから、なんともすべてが初めての事。
このお寺さんにご縁が出来たのは、亡くなった義父がたまたまこのお寺さんのお墓を自分のために買っていたからだった。
地元では大きなお寺で、本山は福井の永平寺である。
私が慣れ親しんでいた「南無阿弥陀仏」とは違って、葬儀の時は太鼓や鐘が鳴り響き、般若心経以外はよくわからないお経だった。
ここでは葬儀と変わらず、初盆は大きな行事で、祭壇を作り、花かごを盛って、玄関には灯籠や提灯が並ぶ。祭壇には、なすびとキュ一ウリで出来た馬と牛の飾りもの。それに3日間供物を与える。
お墓と祭壇、仏壇にはミソハギを飾らなくてはいけないそうだ。
13日からたくさんのお客さんが来られ、家で食事をしてもらう。
14日にはお米をお寺さんにもっていく。その日も近所の方や知り合いの方がお焼香に来られた。
15日は朝から喪服を着てお寺へお参り。たくさんの初盆の方や、檀家さんが大きなお寺にやってきて、長い長いお経や、お坊さんの儀式につきあう。
とにかくすごい。
とにかく、宗教が違えば、やり方も、儀式も、お経も違う。
そして三日間松明を灯し霊魂を呼んで霊魂を送る。
嫁として関わったこの行事・・・大変疲れた。
周りの人の小言・・・見えない仕事をやり続け、・・・でも何をしても言われる嫁の存在をこれほど味わった事は無い・・・
冠婚葬祭っていつから始まったのだろう。
私の気持ちとは裏腹に、知らず間にその家のものになっている。
私がこれを受け入れた覚えはなくとも、知らず間に背負っている事になる宗教やそれにまとわりつくしがらみを〜。
見栄があればあるほど、その重みは重くのしかかる。
自分は持たない見栄なのに、誰かが持つ見栄をいつの間にか背負っている存在って何だろう。
お盆は大変大事な行事だとこの地域では言うけれど、その大事さのはかりどころが、違う。
もっとシンプルに生きたい。
宗教が儀式になり、その儀式に何かいわれがあるのだろうが、その儀式に多額のお布施の値がつき、その盛大さに、檀家さんはありがたさを感じているのだろうが・・・
生まれたときからこの宗教や儀式を知っていたなら当たり前と思うだろうけれど、今になって新しき宗教を自分の目の前にして、あたかも自分のものとなっている感じというのは、なんとも違和感を持つものだ。
するといつの間にかその宗教儀式の成り立ち、その宗教の歴史について思いを馳せてしまう。
浄土真宗は、親鸞が農民のためにわかりやすくした浄土の道で、そのシンプルさは、やっぱ庶民的なんかもしれないし、案外曹洞宗は、もう少し格式を重んじた宗教なんだろうと感じずにはいられなかった。
私は死者は私の中にいて、何処からかやってくるものでもないし、いつもそこに意識しているものだと思っている。
いつからか、お寺もお仕事になって、・・・冠婚葬祭がお仕事になって・・・
大事な事が抜け落ちる・・・魂も今何処にいるのやら〜。
お盆も大事だけれど、もっと大事な出来事・・・今日は終戦記念日。
たった一人の言葉で、張りつめいた日常の糸が切れた。
たった一人の言葉で、長かった意味の無い戦争が終わった。
あっけない・・・あっけなさすぎる・・・たった一人の、たった少数のものが、たくさん人の命や生活を翻弄させた。そんなことってありですか!?
そんなことでいいのですか!?
それでも日本人は、黙って生きてきた。仕方ないと生きてきた。
もうそれも終わりにしたい。
だれかの思惑で翻弄されるのは、もう終わりにしよう・・・
12時、この町にもサイレンが鳴り、亡くなった方へ黙祷〜。
今日はお盆。
実は我が家は、今年は初盆だった。
といいつつ私の実家は浄土真宗なので、お盆は、身内だけでお墓に参って、お寺さんが家に来られてお経をあげるくらい。
でも私の嫁いだ家の宗教は、禅宗で、曹洞宗である。
またそのお寺さんと今までなんも関係がなかったものだから、なんともすべてが初めての事。
このお寺さんにご縁が出来たのは、亡くなった義父がたまたまこのお寺さんのお墓を自分のために買っていたからだった。
地元では大きなお寺で、本山は福井の永平寺である。
私が慣れ親しんでいた「南無阿弥陀仏」とは違って、葬儀の時は太鼓や鐘が鳴り響き、般若心経以外はよくわからないお経だった。
ここでは葬儀と変わらず、初盆は大きな行事で、祭壇を作り、花かごを盛って、玄関には灯籠や提灯が並ぶ。祭壇には、なすびとキュ一ウリで出来た馬と牛の飾りもの。それに3日間供物を与える。
お墓と祭壇、仏壇にはミソハギを飾らなくてはいけないそうだ。
13日からたくさんのお客さんが来られ、家で食事をしてもらう。
14日にはお米をお寺さんにもっていく。その日も近所の方や知り合いの方がお焼香に来られた。
15日は朝から喪服を着てお寺へお参り。たくさんの初盆の方や、檀家さんが大きなお寺にやってきて、長い長いお経や、お坊さんの儀式につきあう。
とにかくすごい。
とにかく、宗教が違えば、やり方も、儀式も、お経も違う。
そして三日間松明を灯し霊魂を呼んで霊魂を送る。
嫁として関わったこの行事・・・大変疲れた。
周りの人の小言・・・見えない仕事をやり続け、・・・でも何をしても言われる嫁の存在をこれほど味わった事は無い・・・
冠婚葬祭っていつから始まったのだろう。
私の気持ちとは裏腹に、知らず間にその家のものになっている。
私がこれを受け入れた覚えはなくとも、知らず間に背負っている事になる宗教やそれにまとわりつくしがらみを〜。
見栄があればあるほど、その重みは重くのしかかる。
自分は持たない見栄なのに、誰かが持つ見栄をいつの間にか背負っている存在って何だろう。
お盆は大変大事な行事だとこの地域では言うけれど、その大事さのはかりどころが、違う。
もっとシンプルに生きたい。
宗教が儀式になり、その儀式に何かいわれがあるのだろうが、その儀式に多額のお布施の値がつき、その盛大さに、檀家さんはありがたさを感じているのだろうが・・・
生まれたときからこの宗教や儀式を知っていたなら当たり前と思うだろうけれど、今になって新しき宗教を自分の目の前にして、あたかも自分のものとなっている感じというのは、なんとも違和感を持つものだ。
するといつの間にかその宗教儀式の成り立ち、その宗教の歴史について思いを馳せてしまう。
浄土真宗は、親鸞が農民のためにわかりやすくした浄土の道で、そのシンプルさは、やっぱ庶民的なんかもしれないし、案外曹洞宗は、もう少し格式を重んじた宗教なんだろうと感じずにはいられなかった。
私は死者は私の中にいて、何処からかやってくるものでもないし、いつもそこに意識しているものだと思っている。
いつからか、お寺もお仕事になって、・・・冠婚葬祭がお仕事になって・・・
大事な事が抜け落ちる・・・魂も今何処にいるのやら〜。
お盆も大事だけれど、もっと大事な出来事・・・今日は終戦記念日。
たった一人の言葉で、張りつめいた日常の糸が切れた。
たった一人の言葉で、長かった意味の無い戦争が終わった。
あっけない・・・あっけなさすぎる・・・たった一人の、たった少数のものが、たくさん人の命や生活を翻弄させた。そんなことってありですか!?
そんなことでいいのですか!?
それでも日本人は、黙って生きてきた。仕方ないと生きてきた。
もうそれも終わりにしたい。
だれかの思惑で翻弄されるのは、もう終わりにしよう・・・
12時、この町にもサイレンが鳴り、亡くなった方へ黙祷〜。
#
by polepole-yururin
| 2012-08-15 23:47
| 思うこと