ゆるりんのポレポレ日記 yururinp.exblog.jp

つれづれなるままに~日頃出会うこと、思うことを綴っています。


by polepole-yururin
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1月29日(日曜日)また静岡県掛川市千羽にあるАgora子ども美術工場に光のアーティスト・高橋匡太さんがやってきた。
今回はアゴラの梅の木に陸前高田市の子どもたちが作った光の実と横浜市の子どもたちが陸前高田への子どもたちへむけて作った光の実が灯された。
一個一個に、笑顔の絵と「負けないでください」「がんばれ」「早く幸せが届きますように」etc・・・というメッセージを添えてある。
やさしさが詰まった光の実である。
里山の夜にそのやさしい光が光っていた。
そしてアゴラの中では、子どもたちの自作自演の影絵・「恐竜のサンタさん」がやっていた。f0215179_2222259.jpg
子どもたちは、来られた観客の前で少し緊張していた。
下の息子もその影絵に参加していた。
恐竜のサンタさん役。(声)
けれど開幕時間過ぎても、小学4年生のS君が来ない。
みんなやきもき!そこで代役に見に来ていた上の息子が抜擢された。
といっても影絵を操る役だったけれど・・・。
なかなか面白い話の内容で、Mちゃんの作った詩に始まり、劇の話となる。
友情ものともいえるかな。
たくさんの観客の前でも無事演技できました!
その後は下のアトリエで、高橋さんとの光のワークショップ。
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今回は、OHPを使って影を大きく白い壁に映し出す。そしてさまざまな影の動きを楽しむ♪
ドライアイスのもくもく煙の影、水の影、シャボンの影、ビー玉の影、小さな木の雑貨を使って大木を表現する♪
子どもたちは影絵遊びに没頭する。
好奇心をくすぐるってこういうことをいうのだろう。
煙や水やシャボン・・・そういうものをじっくり観察したことがあるだろうか?
生き物のように動く影の世界は、発見がいっぱいだった。
このようにして、子どもたちとの実験の場として高橋さんは今後もここアゴラに行き来してくれるようです♪
忙しい高橋さんは、次は新潟へと飛んできます!
かつて震災があった越後妻有で、2月、今度は光の花が雪の中で満開になることでしょう♪
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ps:愛知・地球博があった愛知県長久手市の跡地公園には、今高橋匡太さんの地球をイメージした光が灯っていますよ!デートスポットとなっているようです♪

今回の光のワークショップのもようは、KAMEの翼プロジェクトのブログにユーチューブをアップしていますので、ぜひご覧ください!
KAMEの翼プロジェクト
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by polepole-yururin | 2012-01-30 21:54 | カメの翼プロジェクト | Comments(8)

影絵劇

去年の「ゆく年くる年」をご覧になったでしょうか?
横浜の山下公園の光の実3000個の輝き、見れましたか?
陸前高田の500個の実もくわわり3000の光の実が光っていました。
この光の実は和紙でくるまれたLED電球を忍ばせ、和紙に子供たちが、幸せや夢などを描いた夢の実です。
その実は静岡県掛川市のАgora子ども美術工場でも去年の9月に見ることができました。
やさしい光の実の輝きは、不思議な幻想の世界へといざないでいきます。
この写真は、アゴラでの光の実。
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こちらはテレビからのゆく年くる年の映像です。山下公園の光の実
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光のアーティスト高橋匡太さんを15分間の「ゆく年くる年」の番組中探しました。
これが高橋さん、赤と黒のチェックのフリースみたいな上着を着た方です。
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NHK!もっと写してよね!大仏はたくさん写ったんだけど・・・・021.gif
ま、そんなことはおいといて、明日、明後日とまたこのАgoraに光のアーティスト高橋匡太さんがやってきます。
高橋さんは子供たちと一緒に関わって光の表現を教えてくれます。
高橋さんは、この夏のKAMEの翼プロジェクトのイベントのとき(ここ静岡県掛川市千羽のアゴラで始まったプロジェクト)の交流会・フリートーキングのときにおっしゃっていました。
「ここは、僕をニュートラルにしてくれる場所だ」と。
アゴラという里山もそうですが、そこを作っている渋垂先生と関わることがニュートラルになるんだと。
そしてここにいる子どもたちは純粋なんだそうです。
そう私も思います。
ここは自然いっぱいで、いろんな子が来ています。たとえば障害かな?って子もいます。
でもここではみな同じなんです。
隔たりなく、同情でもなく、みな同じ立場でここに存在できます。
ある面白いことがありました。
高校生、中学生のクラスの話。
みんな一人ひとりここでは交わることはなく、淡々と自分の描くもの、制作するものを作ります。
だから中、高生は、制作や受験のために描くことをひたすらやっています。
しゃべったりといった交流は見た目ありません。
が・・・この間高校生のT君が大学に受かりました。
そのことを早く受かったNちゃんはずっと心配していました。
その合格を知って、自分ごとのように喜んだといいます。
またその日、Nちゃんは自らが「先生すごいんだよ!○○ちゃん!演劇で3位優勝で、今度全国大会へ行くんだよ!」て先生に興奮して伝えたそうです。
Nちゃんと○○ちゃんは、同じ高校なんだけど、学校でも、ここアゴラでも話したりはしません。学年も違うからでしょうか・・・
でも同じ教室のクラスの子のことを仲間として、自分ごとのように喜びました。
最近の知る塾とは違ったやさしい空気感を感じました。
ここでは誰かが目立つということは、ありません。
誰でも同じ位置にいて、尊重する場所だなって思います。
そんなことを高橋さんも感じていらっしゃるんでしょう。
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さて話は飛びましたが、明日は、アゴラの子供たちが自作自演する影絵劇の発表です。
子供たちがシナリオを作り、自分たちでキャスティングして、演出します。
影絵なので、影を操る作品制作も自分たちです。
たいへんよくできた作品ですので、よろしかったら明日15時45分にアゴラへどうぞ。
そして1月29日日曜日18時30分からは高橋匡太さんとコラボでの再演です。
高橋匡太さんは去年NHKの「遠野物語」の朗読の舞台を担当しました。
光と影を操るアーティストさんが、こちらの子供たちとどう絡んでいくでしょうか?楽しみです。
どうぞ静岡県掛川市千羽のАgora子ども美術工場にいらしてください。
もちろん、光の実も灯ります♪

関連サイト:里と湖のポレポレ時間
KAMEの翼プロジェクト
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by polepole-yururin | 2012-01-27 08:26 | カメの翼プロジェクト | Comments(4)

開拓者たち

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今年の1月1日から全4回のドキュメンタリードラマ「開拓者たち」NHK・BSが放送されていた。
昨日は最終回だった。
なんとも重い、激しいテーマだ。
子供の時、祖母から満州の話はなんとなく聞いたことがあったけれど、満州は満州で、シベリアはシベリアで、中国残留孤児、文化大革命・・・戦後・・・私にとっては単語的な言葉で、すべてが点々と違う事のように存在してた。
今までに、中国残留孤児の話がドラマ化された「太陽の子」とかほかにもそういうドラマをみたり、シベリア抑留の話、戦後戦地から帰ってきた人の話は知っていたが、本当の苦労が私には伝わらなかった。
小学校の時毎年夏には、8月6日、9日、15日の日に合わせて戦争の特集がやっていて、かならず見ないといけないようにして見ていた。
見ては怖がり、戦争の恐ろしさを深く深く感じた。
けれど戦争は終わったことだったし、昔のお婆ちゃんの時代の人がやったことで、時代は戦争の気配はなく、高度経済成長で負の余韻を見せない、明るさだけがあった日本が私には映っていた。
「開拓者たち」を見て、中国との話がつながった。
そして戦争が終わってもいつまでもいつまでも戦争の落としてきた負は消えていなかったんだと知った。
東北の貧しかった方々が幸せを求め満州に渡った。
が中国の民から日本軍が奪った土地だった。
長崎の原爆投下の日にシベリアへ開拓者の男衆が抑留されたこと、残された開拓者の女、子供は帰る場所もなく生きていくために男になり、、途中で自決するものもいたり、病死するものもいたり、子供をおいて帰り、その子が残留孤児になり・・・。
開拓者が日本に帰れたのは昭和21年、シベリア抑留された方が帰還したのは昭和 29年〜31年、中国残留孤児との対面で我が子と会えたのは昭和56年・・。
戦後10年、20年、36年たってようやくだ。
東京オリンピックで日本が喚声に湧いていた時にようやくシベリアから帰ってきたのだ。
なんともこの時間のギャップはなんなんだ・・・。
中国残留孤児にしても国との国交ができてからのはなしで、自分の意志ではなんともしようがない時代だった。
戦犯にしても、上の幹部は早くに日本に帰還でき、部下としていわれるままに軍隊にいた人がずっと犯罪を問われ、帰還は30年後とか・・・。
3年前に白州次郎ブームで白州次郎の本を読んだ。
そしてNHKの番組で白州次郎特集をやっていた。
白州次郎の生き方を「プリンスプルな生き方」として褒め称えていたが、日本の上部にいた方は戦時中も戦後も生活は安定し、すぐに戦後の日本の光に向いて生きていた。
皆が同じ戦後を生きていたわけではなく、私たち子供は戦後の日本人の復興を表向きに成し遂げてきた方の話を聞かされてきたわけで、日本が他国にやってきたことや開拓者たちのような翻弄された方の話は伝わらなかった。
最近ようやく口をひらき、無惨な実態を話す人やつらい目にあった方に意識が広がった。
ほんとに伝わらないことがあまりにも多い。
知らないことがあまりにも多い。
知らなくても生きていける。
知らないほうが楽かもしれない。
でも知らないといけない。
誰かにいいようにすり替えられた歴史ではく、見えない悲しみの歴史を~。
ビキニ湾沖の第五福竜丸の事件からの反核運動真っ只中、同じ核からできている原発を「平和利用」いいとすりかえられたように、いとも簡単に歴史はすりかえられる。
民衆の負は消え去られてしまうのである。
那須の土地に生きる開拓者が今口を開いたように、個人の大事な体験を伝えていこう・・・今そう強く思うのです。
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by polepole-yururin | 2012-01-23 21:05 | 歴史 | Comments(6)

行き詰まった社会

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昨日小児科へお母さんのケアボランティアに行ってきた。
昨日も重い現状を抱えた方のアロママッサージ。で大体はお話をすることが主である。
ほんと大変重い現実を日々抱え、小児科病棟で子供のそばで添い寝する。
簡易ベットもしくは添い寝、食事はお母さんの分はいつも下の売店で買う。
生活空間はずっと子供のベット横。
そんなことが1ヶ月、2ヶ月・・・半年・・一年・・・続く。
だいたいお母さんが子供のそばにいることが常。
たまに変わってもらうことはあっても、ほとんどお母さん。
それがお母さんの勤めであるし、わが子かわいさの母性である。
そんなお母さんは、自分を責める・・・
自分の妊娠中が悪かったか・・・自分の普段の生活が子供に負担をかけてしまったか・・・
人は病気になると、自分を振り返ったり、生き方を思い返す、そして反省し、光を見つけようとする。
ただ話す相手もなく、一人のマイナスな思いの堂々巡りを繰り返していては、お母さんの心は救われない。
さてどうするべきか・・・
病院の存在が最近どうあるべきなのか本当に考える。
確かに命を救っていただく、治療の場が病院で、その治療は医師が判断し、指示する。
その指示に従い、看護師が点滴、投薬を行い、薬剤師が薬を調合し、検査技師、レントゲン技師などがその治療のバックアップをする。
治療とはあくまでも医師の指示された治療中心に行われることであり、それが病院の存在である。
が、・・・・
病気は、治療だけで治癒しているか?
私は看護学校でナイチンゲール誓詞を読み上げ、戴帽式に望んだ。
看護学校では、ナイチンゲールのいうことが看護の役割だと学んだ。
あくまでも患者さんのそばで環境を整えることだと学んだ。
そして死の勉強会があって、患者さんがもし死を目の前にしたとき、あなたは患者さんに何ができるか、何をもって看護をするか?と問われた。
「患者さんの只中に入ること」を強く教えられた。自分が患者さんだったら・・・
また「狼に育てられた少年」という本を題材に、いかに人間は環境でいろんなことが左右されることを学んだ。
「環境を整える」・・・看護者側の一番の大事なことだと教えられた。
実習用紙に患者さんの看護を項目別にして計画を立て看護実習に望んだ。
患者さんの痛みの軽減、思いの吐き出し、声かけ、・・・身体をさすり、食事の介助をし、体を清潔に保ち・・・
患者さんに付き添ってADL拡大に向けてかかわっていくことが看護だった。
しかし現実はあくまでも医師の介助。看護師の仕事は指示を遂行することに追われ、またさまざまな書類が医療現場では増えて、パソコン画面に向き合う医療者が増えていった。
いま、身体をふいてくれるのも、看護助手さんで、患者さんを検査等に連れて行くのも看護助手さんである。
看護師さんは、大丈夫ですか?と体温計を持ってきてくれて血圧を測ってくれるぐらいのときと点滴付け替えのときに話すくらいか・・・
何かが違っている医療現場。。。
看護師は、看護してこそ看護師なのに・・・看護は目で手で、そして言葉で守り・・・寄り添うことだと字でも言っている。
やさしさが基本だろうに・・・
環境を整えることは一斉掃除をするベットケアだけじゃないのよ・・・言葉を持って寄り添う姿勢が大事なのだと・・・
ナイチンゲールは患者さんを自分ごとのように想像し、看護を追及したのだろう。
その想像はやさしさに他ならない。
食べるものをお母さんに出してあげてほしいのにそれもさまざまな病院システムがあるようで簡単には意見を遂行されない。
こうだから・・・決まりだから・・・システムだから・・・予断だけれど義捐金の配布についてもそう・・・国や公的な施設は書類当の段取りや制約があり、臨機応変に状況判断してもらえず、ぜんぜんシステムが作動しない。
今考えたことが1年、2年後にようやく形になる。そんなときにはもう遅い・・・意味がない。
そんな疑問を持つ医療者はいるだろうに、いつの間にか組織の人なってしまい、仕方ない・・・難しい・・・それはそうなんですけれども・・・と。
デジタル社会は便利としているようで、制約をもっとつくる。人間も同じく融通の利かない物となっていく。
マニュアル化した社会は、統一ということでは大変大事だけれど、そこに広がりを見せない・・・

病気はあくまでも患者側のものである。医療者はあくまでも補佐である。が・・・
最近は医療もサービス業となって経営の成り立ちを基本とする。(それは戦後の医療制度・保険制度のゆがみやいろんな付けが回ってきているためで・・・)
そういう感じで今のようなサービスをうける側とする側で区切ってしまう社会では、ますますやさしさは抜け落ちるだろう。(棒読みの言葉のサービスや利益という意味では、昔よりはしゃんとしているようにみえるけれど・・)
意味あってその職業についているのなら、その職業の本当の意味を思考しながら働くことが大事なんだろうな・・・
医者の意味。看護師の意味。政治家の意味。保育者の意味。教師の意味。
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今日もあいにく雨である。
けれど庭がしっとり濡れている。
木々が喜び、呼吸しているようだ。
ふとブログを書きながら窓越しのバラに目をやると、鮮やかなバラの葉っぱの表情に心揺れた。
緑、黄色、茶、黄土・・さまざまなやさしい色目に興奮する。
周りの灰色の空気と一枚一枚の葉の表情・・・うまく溶け合い私に問いかける。
きれいだな~って思った。優しい心にしてくれた。
今日の空をしみじみ見ている方がこの世の中にたくさんいますことを祈って~。
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by polepole-yururin | 2012-01-21 09:39 | 思うこと | Comments(6)

1月17日・・・17年目

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昨日、阪神淡路大震災の日だった。
あれから17年が過ぎた。
私も関西で、あの揺れを経験した。5時46分・・・下から突き上げるような大きな音、ド~ンと何かガス爆発したような大きな音とともに恐ろしく縦揺れがした。
揺れは大変長く、身体が硬直し続けた。
その夜は、成人式の次の日だったな・・・。
その夜は、なんだか知らないけれど、寝付かれず、何度となく目が覚め、神経が高ぶっていた。
寝汗をかきながら一夜を過ごす。
そして汗かいたな~・・て思った矢先の大きな揺れだった。
その朝テレビをつけると、恐ろしい神戸の光景が写っている。???・・・・
一応実家にも電話してみると、・・・電話は音信不通・・・つながらない。誰とも・・・
とりあえず仕事に行って准夜勤務をする。事態体は刻々と恐ろしい状態へと変わっていく。
死者が時間ごとに増える・・・
震災から2週間後、私が働いていたICUのナースと医師が派遣されることになった。
先輩から派遣された。その当時はどことも暖はなく、厳しい状態で寝泊りをし、食べ物も先輩たちは一緒に炊き出しに並んだとかいっていた。行く道も閉ざされていて大変だったといっていた。
私は1ヵ月後の派遣だった。
そのときは神戸港にフェリーが用意されていて、そこで私たちは寝泊りをした。
支援に行ったのは三宮の近くの小学校だった。
まだ小学校に避難されていた方がいっぱいだった。
食べ物もまだ炊き出しやパンなどが配られていた。
私は、小学校の保健室で、風邪の患者さんや胃腸炎になった患者さんの介助をした。
午後からは、精神科の先生と三宮の町を歩き、心のケアの巡回に行った。
県の先生と異人館の風見鶏のところを見に行った。
風見鶏は傾いていた。町のあちこちにブルーシートがかぶさってあってたくさんの花が手向けてあった。
まだ若かった私は、ただただ先生たちについていくしかなかった。
その後神戸にルミネリエができ、たくさんの亡くなった方の光をともそうと復興のシンボルができた。
いつしかそのルミナリエは、観光名所となった。
私の神戸も薄れていく。
2011年3月46分、東日本大震災が起きた。46分・・・!f0215179_9392076.jpg
恐ろしい恐ろしい出来事だった。その出来事にかつて被災を受けた方々が、まず被災地に乗り込んだという。
昨日のテレビでは、今まで以上にあの震災へ、厚く追悼の念を抱いたような場面がうかがわれた。
そして被災した方々を17年目にして取材していた。
17年という月日は神戸の方々にとってはあっという間だったんだろう。
みんな白髪が増えた。亡くなった方の写真・・小学生。もうこの子達は今20代のいい若者になっていることだろう。その写真に向けて一人生き残ったお母さんが17年前を語っていた。
神戸は2年で復興した。とある神戸のおじさんが話してた。
確かに町としての復興は早かった。でもその復興は、長田の町を総ざらいして未来都市を作った。
風が吹けば桶屋が儲かる・・・
都市計画もそうである。
合理化を推し進めることが急速化した。ルミナリエができ観光化した。
明るいもの、きれいなもので負を閉じ込める。
確かに前へ進むことは、忘れることやきれいなもので気持ちを変えることである。
でもほんとうにそれでいいのだろうか・・・
東北にルミナリエができることがいいのだろうか・・・新しい未来都市ができれば復興なのだろうか・・・
たぶん震災は、いろんな投げかけを私たちにしている。
表層をペンキで塗りなおしきれいになりました・・・てことではいけないよね。
それが戦争後の日本の復興、神戸の復興となった。
日本はすごい!すぐ復興にこぎつける・・・その生き様の中に、日本がしてきたこと・・・見てみないふりをしてきたものに向き合わないといけないときが来ている。今・・・
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by polepole-yururin | 2012-01-18 09:19 | 震災 | Comments(5)

平清盛

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今年の大河ドラマは「平清盛」
迫力があり、いろんなことを問いかけるドラマ構成になっている。
撮影の仕方が、一昨年の「竜馬」のようで泥臭く、生々しく、そして活動的である。
このあいだの「江」がちょっとメルヘンチックだったので、かなり期待できそうだ♪
平清盛が、白河上皇の子だとはじめて知った。
ま、これも脚本での描写の仕方なのだろうけれど、そんなスキャンダラスなことから始まるのだからなんともひきつけられる要因のひとつかもしれない。
中学生のとき、歴史で習った平氏と源氏・・・白河上皇、後鳥羽上皇・・・など院政という言葉を思い出すが、なんともあの時代は難しく、その氾濫の話とか、平氏と源氏の存在が貴族だったことにもなるほど・・・と思ってしまう。
あの頃はいきなり、平氏、源氏とか出てきて、武士の存在が現れたことだけが、教科書に載っているので、よくわからなかった。
今の世から考えてみると、想像がつかないくらいの身分社会であり、封建社会であること・・・だからそこまでして貴族に仕えること、上の人の話が絶対だということが理解しがたいわけで・・・
幼少期は子供漫才師の前田前田の弟が演じていた。
上手だな~って見とれた。
あれだけはきはきと演じてくれると頼もしい♪
それだけでなく、陰陽師とかの時代でもあり、また芥川龍之介の羅生門の時代でもあり・・・そのなんとも時代背景が、なまめかしく表現されている。
芥川龍之介の「羅生門」は高校時代に習った。
あの文章を読みながら、芥川さんが描写する男の情景、・・ぎらつきと生めかしさと、おどおどろしい状態、怖さと生きていくためのふがいなさと・・・定めと・・・そんな複雑な思いを文章で追い、頭で想像した。
その想像と狂いなく、この「平清盛」では表現していて、不思議な感覚に陥った。
陰陽師ともののけ・・・そのこともどうにもならないことへの思いが伝わる。
この間歴史ヒストリーで、「平清盛」をやっていたが、その平清盛は、この大河ドラマのように、武士の清らかな思いを貫くということは伝えていず、結婚によって、出世していった玉の輿状態と、平家物語のように脱落の描写を伝えていた。
大河ドラマと歴史ヒストリーとの内容のギャップにちょっとショックだった。
確かに私の中でも、平家より、源氏が英雄であったのだけれど・・・歴史ヒストリーはさらにその思いを強くさせる。
でも今年一年は、大河ドラマの思いに目を向けて、ドラマから、私の知らない「平清盛」を知ってみたい。
平清盛が、なぜ武士としてこの世に存在していったか、そしてその栄華を極めようと心動いたのか、・・・単に権力におぼれたからではないことを期待して♪

今年になっても、ユーロの貨幣価値の低下、イランの核問題と海峡閉鎖問題、アメリカの経済制裁、北朝鮮の問題、日本の原発、震災復興への問題・・・急激に社会は動き出している。
この問題は、民主主義のあり方を問うている。そして核の存在を問うている。
力とお金・・・疲弊した社会の行方をどう捉えるか・・・
疲弊した社会といえば平清盛が生まれた時代も、400年続いた貴族社会の疲弊した時代。
平清盛が、貴族社会を武力でもって世を平定していく。
そして武士の世の中は大政奉還まで約700年続く。その後も軍国主義へと突入する日本だが・・
私たちは歴史で繰り返し見てきた・・・武力交渉の成れの果て・・・。
さて、疲弊した社会を変えるにはどうすればいいか・・・そんな思いをもって平清盛を見ていくことにいたしましょう。
ま、今は力ではなく、和をもって尊ぶ時代でしょう・・・本当は。・・・・・by 聖徳太子
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by polepole-yururin | 2012-01-16 09:44 | 歴史 | Comments(2)

冬の朝

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今日は9日成人の日。
昔は15日だったので、世間が成人式と騒いでいててもピンとこない。
毎年成人式というと金髪や白袴を着た若者が成人式のときに暴れている光景がテレビで見るが、今年は東日本大震災のこともあってか、みんな厳かに久しぶりに会う仲間と成人の日を迎えている様子が伺えたように思うが・・・。
そんなことを考えながら、庭に出てみると・・・
冬バラが咲いている。
最後のエネルギーを振り絞って可憐に咲いていた。
何もない寒い庭にぽつんと色を添えている。
やさしい存在感だ♪
このバラは、伊豆の踊り子。名前に引かれ、色に引かれ5年前に購入した。
この名のとおり、この土地にあったバラなんだろうな~。
f0215179_9452315.jpgアーチには、色が少しあせたアンジェラと、バフビューティーが今も形を変えずにたくさん咲いていた。
ドライフラワーのような感じで、アンティークな雰囲気をかもし出している。
葉も紅葉しているためか、美しい♪
隣にはポンデネッラが一輪色を凝集して、濃い紅色を呈していた。こんな色なかなか人工では出せないよ!
もともとはボタン色なんだけれど、秋~冬にかけて咲くバラは、色がほんとに鮮やかで、春のバラとは違う種類なのかと思えるほど、表情を変える。
植物にとっても厳しい寒さが、色の具合を調節しているんだな~って自然界の不思議を思う。
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冬といえば水仙。
小さなクリーム色の花がかわいくて、いてつく寒さを和らげてくれるようだ。
水仙を見れば、日本海の越前町の水仙街道を思い出す。
そろそろ海岸線に沿って水仙が咲き誇る季節だな~と。
今は、ズワイガニでにぎわっているんだろう♪
その越前町の対岸には敦賀原子力発電所が見える。
町の人は、原発の存在は見えていなかったそうだ。
今年、福島の被害があってから、その原発が見る風景に恐怖したそうだ。
福島から避難されてきた数名の方から事故当初から避難したころまでのお話を聞く会を開いたり、敦賀原発への対処の方法等求めているという。
滋賀県も動き出した。
滋賀県は、敦賀原発、美浜原発から30キロ~50キロ圏内に位置し、関西の水がめである琵琶湖に直接大きな影響を受けることになる。
京都、大阪の人々の生活用水は、この琵琶湖が源である。
原発事故の危険状態、不具合について知らされるのは、直接立地している町だけであった安全対策。そのことが近隣の町には知らされるシステムにはなっていず、このことに対しても訴えていてもなかなか早急に改善されなのだという。
今年に入って、40年過ぎた老朽化した原子炉は停止することとなったと新聞にあった。
福島第一原子力発電所はもとより、敦賀、美浜もその当時できた原子力発電所である。
しかし、敦賀市や美浜はそのことに対して「ここは定期的に点検し、不都合なことはなく安全対策を怠っていない」として、このまま稼動し続けることを要望しているという。
なんとも悲しいというか恐ろしいというか、原子力で支えられてきた町の現状である。
敦賀市、美浜町、高浜町・・・福井県は主に海の産物で潤っている町だ。その県に原発が並ぶ。
敦賀市は今、大きな道がたくさん交差している町となった。・・・原発殻の交付金のおかげだ。
水晶浜へ行くにしても、長い長いトンネルを抜けていくようになった。
そのトンネルを通る車はほとんどなく、あまり通らないトンネルは怖いほどだ。
昔はのどかな山間の道を車で30分~1時間走らせると、きれいな海が見えてきて、その雰囲気がよかった。
山を削り、コンクリートで固め、必要かどうかわからない道を作ることは、強いては海の環境をも変えるのに・・・。
原発が立地している町はお金が有り余り、そのお金を建築や土木事業にまわし・・・田中角栄の「日本列島改造論」が今でも残る地方の仕組みである。
原発銀座なんていわれている話がなんとも・・・な~。
水仙の花言葉は、「愛にこたえて」だという。
東北の方の悲しみを知り、その悲しみを愛に変えて慈しもう。
そんなことを思います。
今日も、こちらは晴天です。
冬の柔らかい日差しに包まれ、姪っ子のポンチョを編んでいます。
編みながら時折庭を眺めて、こんなことを思います。
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by polepole-yururin | 2012-01-09 10:00 | 私のこと | Comments(7)
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明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
さて私は、年末に実家の滋賀県へ帰っていました。
高速を走らせ、岐阜を過ぎた頃ぐらいから、だんだんと曇り空になり、車の窓も曇ってきました。
するとまわりは雪景色。
寒いはずです。
高速を降り、北へ北へ行きますと、雪はもっと深くなります。
太平洋側と日本海側では、ほんと違うのですね。
私の知る冬景色です。
寒いのですが、その寒い外から帰って家に入った時の湯気の匂いというのでしょうか、その香りが堪らなく幸福の匂いなんです。
私の知る幼き幸福の匂い。
寒さを知るから暖かさがもっと感じられ、雪があるから湿り気が感じられ、湯気が立ち香りが鋭くなるというのでしょうか~。
実家で野菜をもらってきたのですが、雪の畑から、雪を掻き分け、大根と白菜を取ってきてくれました。
厄介な雪ですが、この雪が白菜や大根を甘くしてくれます。
冬は寒いからいいのだと、こういうとき感じます。
そして今年は、実家でおせちを作りました。
いつもは黒豆、栗きんとん、煮しめは私が作り、他は義母がホテルの御節を買われるのですが、今年からは購入することをやめられたので、すべて手作りとなりました。
母と叔母とガヤガヤいいながら御節を作っていますと、電話がありました。
被災地・女川からでした。
9月の退官のときのお花のお礼と年末ミカンを送ったお礼でしょうか・・・
女川のE先生からでした。
「元気にされていますか?どうでしょうか?その後は・・・」と聞きました。
「元気です。何とかやっています。でも回りはあのままですから、なんともいえない気持ちのまま、一日一日を過ごしています。」とE先生はいいました。
そうですね、ほんとそうです。
8年間かかる都市計画の前に、どうすることも出来ない住民がいるのですもの。
仮設に皆様は移られ、生活は個人となりました。
義援金ももらえたのでしょうか・・・?
ただただ以前のふるさとは今も目の前にはなく、ガランとした空洞の土地だけが残っています。
ましてや地盤は、今も満潮の時は沈下してしまいます。
希望は何処にあるのでしょうか・・・女川の皆様のことをいつも考えております。
少しでも心が癒えますように~
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すると、家に帰りますと、女川より、大量の笹かまぼこの詰め合わせが送られてきていました。
「支援ありがとうございました」とのしには書かれていました。
あ~先生・・・ありがとうございました。
逆に気遣いさせてしまったのではないでしょうか・・・本当にありがとうございました。
早速おいしいおいしい笹かまぼこをいただきました。
そういえば、震災の時、何も食べるものがなかったとき、唯一お腹を満たしてくれたのは、笹かまぼこだったそうです。
忘れられない笹かまぼことなりました。
今私は、「はしら雲」という小冊子を作っています。
震災の時女川の保育所の先生達のこと、思いを10話の話しにして書いています。
「伝えること」が私は大事だと思っています。
先生、そして女川の皆様今年は、きっと良い年となりますことを祈っています。
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早速手作りおせちのなかには、送られてきた伊達まきや笹かまぼこもいっしょにつめました♪
皆様今年もよろしくお願いします!
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by polepole-yururin | 2012-01-01 20:12 | 私のこと | Comments(17)