ゆるりんのポレポレ日記 yururinp.exblog.jp

つれづれなるままに~日頃出会うこと、思うことを綴っています。


by polepole-yururin
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カテゴリ:震災( 43 )

お知らせ

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九州の熊本の大地震への支援のお願いです。

熊本は私にとって思い出の場所。
幼き子どもを連れて、何度も訪れた場所。
阿蘇、山なみハイウェイ、南阿蘇、湯布院、黒川温泉、熊牧場・・・何度もいきました。
人の少ない自然の多いすてきな場所。
何度も行きたい場所。
大好きでした。
また行きたいとずっと思っている場所。
今回の地震で、政権は、現地の人たちを助けると言う行為より、宣伝、政治利用に多いに使い続けています。
オスプレイを使い、200個の段ボールを輸送しただけ。その200個の段ボールを被災地に届ける交通網が遮断しているのに、オスプレイは着陸に不安定さがあるとして、大きな場所に着陸した。そんでそんな陸地からの輸送の方が大変になっててんやわんや・・・自衛隊のへりコプター等があるにもかかわらず・・・使わず。結局佐賀空港にオスプレイ配置の為の宣伝に使った訳です・・・。
また、無料で物資を送ればいいでしょうに、コンビニへの商品調達に支援して・・・企業支援に忙しい。
コンビニがいかにうさんくさいブラック企業か・・・店長さんやそこで働く人は大変です。働くのをやめたら借金がうまれていくのです。儲けは結局コンビに本部。
コンビニがこんなに世の中に広がったのには訳がある。
店舗の敷地確保にも様々なからくりがある。銀行と不動産業者と経理士等の関係性・・・
無知な個人はうまい話に乗ってしまう・・・自殺者まで出して・・・
政府が壊れていると私たちの身の回りにある公の人々の行動さえ、いかがわしい振る舞いを当然のごとくやってのける。
犠牲者続出の事実・・・
東日本大震災の惨事に続き、今回の被害。
正される行為より繰り返される行為。
もはや個人の意識で動く人々に繋がり、真実を掴んでいく。
テレビ報道はもう消えた。
この間の憲法記念日の様々市民の動きがほとんど、テレビに流れない。
流れても捏造されたきじばかり。
ネットでもニュースとして上がらない・・・
ようやく出たのが二日後。
今本当を知れるのは、ネットの岩上安身氏のiwjのみといっていいのではないか!?
岩上安身氏のサイトがなかったら、今市民はどんな動きをしているのかがほんとに掴みづらい。
2010年は報道の自由は日本は世界で4位だった。今はもう72位だそう。
この恐ろしき実体。
情けない!
だから、個人のつながり大事にして行きましょう!

ローマさんのBlogより、熊本への支援のことが書かれています。
是非賛同と拡散を!





・・・
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by polepole-yururin | 2016-05-06 00:21 | 震災 | Comments(0)
2011年5月 女川
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東日本大震災から4年。
小学生の息子は高校に。
あのとき出会った4歳のMちゃんは、もう3年生だ・・
子供の成長をみるとすごい変化だと思う。
4年という月日は、子供にとって本当に大きい。
この震災で明らかになったのは、震災は、桶谷が儲かるシステムだと言うこと。
私は震災で生活を奪われた人がいる事にいてもたってもいられず、東北に向かった。
津波被害を被った人は、避難所生活半年、その後仮設住宅に移住し、今に至る。
この状態がいつか改善されると思いきや、現政権は、完全に無視し、原発再稼働に動き、原発輸出に忙しい。さらには戦争を閣議決定する空気を作っている。
もう悪政の極み。
大義名分もない。
勝手に先手を打って、戦争する国に近寄って、大盤振る舞いしてる。
それでもまだその政府の動きを何とも思わない人がいるのだとしたら、これはもう無関心極まりなく、憤りさえ感じる。
放射能汚染は4年経っても消えない。
その被害、健康被害が多数出ている。
それに自殺者が後を絶たない。政府はこの自殺に関して、原発と何ら関係ないというが、関係なくして福島の住民が急激に自殺者が増えるかと言う事・・・
福島では、本当にひどい話になっている。
放射線値は未だに高い、それなのに声を出せない。聞いてもらえない。
除染状況もひどく、いまや除染の意味は無い。
除染は草刈りそのものだそうで、その草刈りを自分で行う事を業者に委託する。
除染した後の土を置く場所は満杯で、もう借り置き場はカリカリカリと仮の3乗。
ずさんな除染だ。その除染も業者頼み。
桶屋が儲かる・・・・
さて今日は、震災の日に大変びっくりするような本を図書館で見つけた。
是非皆様にも読んでいただきたい!
この本は今から10年前に書かれた本です。
あの当時から危機意識を持つ人はいたんだ。
「戦争のつくりかた」
去年新たに資料を付け加えて「新・戦争のつくりかた」

読んでいて、怖くなった。
今の社会を大変反映している。
この日本、安倍政権が、今何をしているんかが本当にわかる本だ。
私は息子に早々読ませた。
子供にも、大人にも目を通してほしい本である。

本文は語る。
ジグソーパズルのように事が点在し、そのジグソーパズルをはめていったら何になるのかが見えてきたと・・・
リアルな現実が私達の目の前に登場する。
怖くなる・・・けれど、そのリアルな現実を今本当に気づいて、止めないと、私達はどうしようもない社会へ突入してしまう。
戦争屋がしかける戦争の被害を被るのは、戦争屋ではなく、弱い国民である。
金儲けの為に罪のない命が大量に奪われて行く。
その事を本当にリアルに伝える本「新・戦争のつくりかた」
是非読んでください!そして広げてください!警告してください!
現政権の暴走を止めてください!
現政権の暴走を止めると言う事は、まずは、今私達がいる足下をちゃんと感じる事なのです。
知る、そして私はIam not 安倍!安倍はNO!と言い続ける事です。
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by polepole-yururin | 2015-03-11 23:37 | 震災 | Comments(0)
テレビニュースや時代の変革に対して、大変テンションが下がっている今日この頃。
あ〜あ・・・と嘆きながらも気を取り直して朝のコーヒーを飲み、前に進もうと!とまたアゴラ子ども美術工場へ行って庭作りに勤しもうと意気込んでいた矢先。
被災地・女川から電話があった。
女川町立保育所の前所長さんのE先生だった。
「山のしどけをY先生と採りにいったので、〇〇さんに贈りました。食べてくださいね。」って。
「え〜!ありがとうございます!わざわざ本当にお手間入りをありがとうございます。」
そしてその夜、宅急便が我が家にやってきた。
大きな箱に、濡れた新聞紙に丁寧に包まれた採れたての山菜のしどけが、たくさん入っていた。
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あ〜先生ありがとうございました。
私にとって、このしどけは、思い出深い、大変意味あるものだった。
私は、3・11が起こり、一ヶ月が経った被災地へ知人と支援に行った。
一番被害の大きかった石巻へ向かい、そこのボランティアセンターで子どもの支援している青年に出会い、いち早く子どもサポートに力を注いでいらっしゃった女川第一保育所を、支援の拠点として初めて宮城県牡鹿郡女川町へ足を運んだ。
そこで保育所の先生方と出会い、保育所の先生たちは避難所運営者として動いてらっしゃった。
そして保育所の先生へと子どもたちへと避難所の人たちへ小さいながらも自分たちの支援をしようとたびたび通う事とした。以下2011年の震災の項参照・・・
2011年5月、支援に行った私たちに避難所の保育所の先生は、避難所の方々への食事を作る傍ら私たちにもごちそうしてくださった。
震災後二ヶ月の頃、まだまだ女川は自衛隊しか入れない状態で、食事も服も様々なものが支援物資でまかなわれていた。
そういう場所で、第一保育所では、支援物資のおにぎりとかのできあいのものだけでなく、自分たちで食事を作ろうと奮闘されていた。温かさをモットウに手を加えられた食事を避難所の方へ提供されていた。
スパゲティーとおひたし。
「このおひたしは、しどけといいます。ここら辺の山で採れる山菜です。今日朝採ってきたんです。
わたすらは、この山菜をよく食べるんです。この時期になるとね・・・。」とE先生は言った。
E先生はこの震災で17人の親戚を亡くされた。しかし当時は民生委員をされていたので、自分ごとよりお年寄りの避難の支援や遺体確認をする家族に毎回寄り添い、一緒に確認する作業を手伝っていらっしゃった。当然前保育所所長だったので、現保育士所長のサポートも担っていらっしゃった。
先生は震災前は、食育で子どもたちやお年寄りに食の大切さを教えてらっしゃった。
そういう先生が、もうそろそろしどけの頃だと思い、山に入り避難所の方と私たちにわざわざしどけを採りにいってくださり、旬のものを食べさせてくださった。
何も無くなった・・・無くなる以上に無惨な破壊された女川の街で、私が先生が採ってくださった採れたての山菜を口にするとは思わなかった。
おいしかったと同時に何とも言えぬ深い暖かみをいただいたしどけの味だった。
一口一口噛み締めて大事に食した事を思い出す。
それからも先生との交流は続き、一年後そのやりとりの中で知り得た先生たちの思いを書き記した。
そして今年2月に「はしら雲」という本にして出版した。といっても自費出版なので、まとめたと言った方が的確かもしれない。
その本を女川へも贈った。
E先生は丁重に喜んでくださった。
本にまとめるにあたり、女川の先生の心の奥底に潜む悲しみは、想像を超えるもので、公務員という立場や責任といういう立場で、単純に物事を書き記すには行かず、本当に難しい作業だった。
結ばれた人間関係も複雑な出来事故に、様々な人の思いに揺さぶられた。
そして傍観する事の方が、人って傷つかないんだな〜って事も感じた。
傍観して他人事にして放置して生きる事の容易さと、それに引き換え一生懸命自分ごととして思考し動く事の難しさ・・・
そのあり方に、この社会の縮図とも言うべきものを少し垣間みた。
それでもやはり私は動く事を選択し今にある。
そして今日、女川からしどけが贈られてきました。
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早々にお礼の電話を入れ、料理方法を聞き、熱湯に入れて20〜40秒、そして塩揉みして、おひたしにして食卓に並べた。
ほろ苦いアシタバのような風味がふわ〜っと口の中に広がった。
ほろ苦さが、私の震災への思いと同化した。
そしてあの時いただいたしどけの思いをまた深く噛み締め、女川を思った。
このしどけの優しさを私は忘れない。
この世の中が、どんなに矛盾だらけで、歪まれようと、丁寧に生きる人の中には、人を思う深い優しさがあり、思い、想像し、行動する事が、どれだけ人の心の隅々にまで浸透するか・・・
上等な菓子折のように買って贈る贈答品のやり取りが社交辞令になり、事を単純化し、ありがとうの形までもがマーケティングに乗っかり、戦力となる。
人の心までもが売り買いされる世の中である。
そんな中で、たとえ小さくとも、他を思う心遣いのやり取りは、本当に大事な事なんだと改めて思う。
そのしどけをもってアゴラへ行った。
一緒にあの時しどけを口にしたもうひとりだから。
するとアゴラの先生は、二三本のしどけの枝をビンに突き刺した。
「つくといいな〜♩ついたらまた山に植えよう。女川を思いまた山の再生だね!」って先生は言った。
そしてなにげに「はしら雲」の本の横に置いた。
「はしら雲」の第四章に載せてあるE先生を思い、また本を読み返した。
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*この本には書けなかった先生の事、そして他にも・・・
先生はたくさん遺体を目の当たりにした。手がなく、足がなく、顔も変形し、あるべきところにあるものがない・・・無惨な状態をひたすら震災後見続け、避難所運営された先生だったんだってことを・・・
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by polepole-yururin | 2013-05-30 09:51 | 震災 | Comments(2)

クリスマスプレゼント

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クリスマスイブの日、大変うれしいプレゼントがきました。
被災地・女川からの電話です。
「もしもし、○○です。昨日小包が届きました。ありがとうございました。Mも喜んでいます。今Mが話したいというので、いいですか?」とMちゃんのお母さんからでした。
「もしもし、プレゼントありがとう。いっぱいありがとう、嬉しかったです。」とMちゃん。
「元気ですか?」「「うん」「保育所は楽しい?」「うん」・・・・
「この間の地震は大丈夫でしたか?電話しましたが、つながらず・・・」
「はい、大丈夫です。仕事も少しずつ軌道にのっています」と。
少しの間の電話でしたが、大変嬉しい電話でした。
12月22日段ボールに、ヒートテックのシャツを7人分、Mちゃんとお兄ちゃんのT君にはジャンバーと少しのクリスマスプレゼントを、そしてみかんを入るだけ入れました。
そのお礼の電話でした。
来年は、震災時4歳だったMちゃんは一年生に、4年生だったお兄ちゃんは中学生になります。
早いものですね。
あの子たちの成長を見届けたいな〜と思います。
Mちゃんのお父さんとおじいちゃんは、船作りをされています。
内装とエンジン取り付けです。
ディーゼルエンジンの祖、ヤンマーディーゼルの山岡孫吉の精神を受け継いで仕事に精を出しておられます。
何もなくなった女川に簡易の建物を建てていち早く復興を始めたおじいちゃんとお父さん。
私たちは偶然Mちゃん家族に会い、その後のMちゃんに関わりました。
震災一年後、Mちゃんに手作りの陶器を持っていった時に、Mちゃんちがいち早く復興を始めていた方と知りました。大変感動しました。
そしてヤンマーディーゼルの祖や山岡孫吉は、偶然にもわが故郷小学校の偉人でした。
小学校は山岡孫吉寄贈のものがいっぱいありました。
そんな身近な話が女川で聞けました。
山岡孫吉の小説を買い、そしておじいちゃん、おとうさんへその本を贈りました。
もう山岡孫吉の本は新書はありませんでしたが、いろんな共通点で結びついたご縁です。
今年は去年よりも笑顔多い年でありましたこと、そして来年はさらに今年よりも改善される事を願います。

過去のブログ:震災の項を見てください。
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by polepole-yururin | 2012-12-28 08:47 | 震災 | Comments(10)

女川の復興 NO2

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次の日の朝、女川の町へ車を走らせました。
津波で町もろとも無くなってしまった女川は今、ブルドーザーとユンボが動き、大きな破壊された建物のガレキは撤去され、建物の基礎だけが残っている光景に様変わりしていました。
その中で、ビニールシートが掛かった建物を探しました。
ぐるり女川の町を見渡すと、ちょっと高台の所に灰色のビニールシートが見えました。f0215179_10494935.jpg
「あ!あれがMちゃんのおじいちゃんの工場だ」急いで小高い坂の上の小さなビニールシートの建物へ車を走らせました。
車を近くに止めると、「お早うございます」とおばあちゃんとおじいちゃんとお父さんがにっこりと挨拶をして手招きしてくれました。
ビニールシートの建物は、トラック一台入るぐらいのガレージみたいで、その中に工具がいっぱい置いてありました。
その工場は明らかに高台で、ここまで津波が到達するなんて到底思えない場所にありました。
Mちゃんの家はその高台の工場の上にありました。f0215179_10505889.jpg
今は空き地化しています。Mちゃんちの家から上に二軒目の家は無事だったようで、そこで生活されているようです。
津波は、Mちゃんの家まできた・・・そんな感じです。
Mちゃんちのあった家の対岸?(遠くの方の高台)に、女川町立総合病院が見えます。
今も病院経営されています。
その病院の壁の色が一階と二階で分かれています。「あそこの一階まで水がきたんだよ。」とおばあちゃんは言いました。f0215179_10524272.jpg
あそこまで・・・「そうだよ!あそこまできたらここはやられていまうわな〜」っておばあちゃん。
津波の脅威を感じずに入られません。
Mちゃんちの周りは見渡す限りの平地と化した女川です。
所々に私の家はここだったと主張している基礎だけがのこています。
地震から1年4ヶ月が経ちました。
テレビや新聞からは被災地の様子はもう流れてきません。
今は沖縄のオスプレイの配置の反対問題や政治の問題、九州の豪雨の被害・・・日常は今起こっている事がトピックスのように流れるだけで、その状況を追って知らせる事は少ない・・・それでもそこに生きている人たちはここにちゃんといる訳です。
私たちはついつい情報が流れないと、日がたって事が元通りになるように錯覚してしまいます。
でも状況は、いろいろなわけです。
何もない女川に今人はどこにいるのか・・・山の方に設置してある仮設に人々は暮らしています。
そして生活はどうされているのでしょうか?
女川は漁師の町でした。ずっとずっと昔から。(女川町史より)
復興は漁業再開から・・・
立ち上がったのは浜の人たちです。
浜の衆・・・漁師たちです。
その方々が動くためには、まず船が必要なんです。
昨年の今頃(7月)浜の衆は、Mちゃんのおじいちゃんに「はじめてくれ〜、Sさんがはじめてくれなきゃ始まんね〜。たのむっちゃ〜」と声を伝えたと言います。
Mちゃんのおじいちゃんは、震災前まで船にエンジンやマストなどをつけて最終行程の仕上げをする仕事をしていました。
その仕事をおじいちゃんは50年続けてきました。そしてそのおじいちゃんを息子のMちゃんのお父さんは支えてきました。そして震災・・・
女川は8年計画で、自宅に家を建てる事もできず、町が出来るまで動きたくても動けない・・待ったが掛かった状態です。誰がここで指をくわえてじっと待っている事が出来るでしょうか。。。
復興は、個々の自立であり、公共が町を整えて作り上げてできるのではありません。
その町に人が住み、息づかいが感じられることが生活であり、復興なのだと思います。
国や行政はいつも紙面上の構想で事を押し進める・・・でもそこにはまず生きている人がいるんです。
幸いにして、震災当時、おじいちゃんとお父さんは、他の所で仕事があり、女川にはいませんでした。ある程度の溶接機械や工具はトラックにつんで仕事に行っていました。f0215179_10535318.jpg
おじいちゃんたちに残されたもの・・・それがトラックとその中の部品、そして工場跡の銀シャケの稚魚のために頼まれていた水槽の鉄の骨組みでした。
そしておじいちゃんは始めました。
工場の跡地におじいちゃんとお父さんは、稚魚の水槽の枠を基礎にして、それに鉄で柱をくみ灰色のビニールシートをかぶせ、仮の工場を作りました。(役場の申し出に応じてすぐに解体できるようにナットで取り外し出来るように作りました)f0215179_10565262.jpg
ここから始まったのですね。ここからMちゃんの家族の復興が・・・。
おじいちゃんは言います。「やるしかね〜、やらねばどうしよもね〜、俺らはこれで生きてきた。浜の衆もここで生きてきた。やるしかね〜んだ。」

今女川はホタテの養殖から始まりました。
ただ東北の漁業は、福島の原発事故で、放射能の汚染等で大きな痛手を受けています。
この補償に関して、誰が責任をとるのか、問題は山積みです。
宮城県知事が震災後すぐに言い出した漁業の企業化・・・
合理化する事で人を救う事が出来るのでしょうか?
今まで日本がやってきた合理化、大量生産、大量消費の社会構造は、個で生きる人々の暮らしを脅かし、苦しませてきたのだとここにおいてはっきり見えてきたような気がします。
私は6回にわたり女川に行きました。
そこで見たのは、東北の方々の強さでした。
しかし時間が経つにつれて個が置かれている立場において格差が生じてきているのも事実です。
ただ言える事は、誰に雇われることがなく、自分から動き出している方々は、嘘偽りはなく自分を語ります。そしてちゃんと地に足つけて立っていらっしゃる事を実感しました。

ガレキの中からひとり動き出したMちゃんちのこの工場・・・そこから女川の復興を見たような気がします。
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そして女川のもう一つの復興・・・女川町立第一保育所の近くに「希望の鐘」という仮設の商店街が出来ました。
木造の柔らかい長屋仕立ての商店街。
郵便局、交番、銀行、そして果物や、魚屋、お花屋、文房具屋・・・昔の町がここにありました。
幼稚園の頃なりたい職業・・・「おはなやさん」「おまわりさん」「くだものやさん」・・・原点に戻りましょう♩そんな事を女川は言っているようでした。
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by polepole-yururin | 2012-07-23 08:26 | 震災 | Comments(4)

女川の復興  NO1

朝9時前に静岡を出発。
晴天、ついこの前まで雪の帽子をかぶっていた霊峰富士は、いつの間に黒く、陽炎のように存在していた。さ〜10か月ぶりの東北へ〜。(0、13シーベルト)
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昼過ぎ、徐々に福島に入る。途中放射線量を計測しつつクルマを走らせる。
安達太良山・・・この山の麓にアゴラに昔きていた生徒さんがいると聞いた。
あの子たちはどうしているのだろうか・・・先生は子どもたちに思いを馳せ、安達太良山を仰ぎ見た。(1、29シーベルト。)
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ほんとうの「空」高村光太郎の「智恵子抄」
この空を見て千恵子は言った。
「智恵子は東京に空がないと言ふ、ほんとの空が見たいと言ふ。私は驚いて空を見る。桜若葉の間に在るのは、切つても切れないむかしなじみのきれいな空だ。どんよりけむる地平のぼかしはうすもも色の朝のしめりだ。智恵子は遠くを見ながら言ふ。阿多多羅山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ。あどけない空の話である。」
この空はあのときと同じような「ほんとうの空」なのだろうか・・・
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夕方ようやく石巻へ
石巻は大型量販店が建ち並ぶ。
あの時はなかったお店が建ち並ぶ。チェーン店がどんどん建っていた。土地が安く売り出され、進出する企業が増えたのか・・・町の様子は様変わり〜。
石巻本来の町並みが、大きなお店が入り、静岡、関西・・・・どこにでもあるお店ばかりになった。
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石巻の市内から渡波地区へ〜
去年9月はまだまだ手つかずの状態だった。
だいぶん新しい店が入り込んだ。
イトーヨーカ堂ができていた。
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ただ個人の家はまだまだ震災当時の爪痕を残す。
格差が出る被災地の現状である。
水産加工の倉庫のようなものができていた。漁業の町はまずは基盤作りだと動き始めていた。
ガレキが撤去されて、松林が見えた。ちょっと前までは見えなかった海岸線。あ・・・ここは海に近かったんだと感じる風景が現れた。
私たちが行った渡波中学は、もうガレキ置き場と化していた。
ガレキの様子が変わってきた。
大きな物が無くなり、土塀、木屑などになったからか、量が減ったように思う。
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さ〜ここからが女川だ。
女川の町に入ると、ドラックストアができていた。
10ヶ月前までは、お店は女川にはコンビニが一個あったのみ。
そこに薬屋・・・ちょっと生活が便利になったんだな〜って感じた。
私もここに立ち寄って買い物。
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この光景は変わりなく・・・
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けれど町の様子は変化した。
何も無くなった。大きな建物マリンパルもつぶされ、見えるものは、横に倒された二階立てのマンションとビルのみ。
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駅の周りも埋め立てしていた。
もう津波の爪痕もなくなった・・・ここに何があったのかもわからなくなった。
砂利が敷き詰められた土地が続く。
時折基礎だけがここは私の土地だったと主張していた。
津波で全壊した女川第二保育所も無くなった。小さな便器も水道も、表札も・・・
無くなった・・・
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7時半ようやく女川町立運動公園に着いた。
三階建てと二階建ての仮設住宅が建ち並ぶこの場所にMちゃん家族は暮らしている。
この8個建ち並ぶ仮設のどこかに〜。(0、11シーベルト)

「先生〜!!」遠くで聞き慣れた女の子の声が聞こえた。
先生は、暗くなった仮設住宅の周りを見渡した。
「あ!先生そこそこ!Mちゃんとお母さん!」
Mちゃんとお母さんは目の前の仮設の一部屋から手を振っていた。
暖かい歓迎を受け、仮設住宅へお邪魔した。
仮設住宅は3部屋あって、台所と一体化したリビングに小さなテーブルと座布団があった。
テレビの前には、9月に撮った2番目の避難所での家族写真(撮った写真を額に入れて送ったもの)と小さなお地蔵様(私が作って九月に渡した)がちょこんと飾ってあった。
「どうぞ、座布団にどうぞ♩」お母さんは優しく言った。
そしてお揃いのガラスのコップとお揃いのお茶請けが並んでいて、そのガラスのコップには冷たい麦茶が入っていた。その横にはお皿にバームクーフェン。
「どうぞ、召し上がってください。」Mちゃんもニコニコしていた。
なんかほっとした。
「お皿等どうされましたか?」って聞いたら、支援物資をここに入るまでに集めましたってお母さんは言った。
そうでしたか・・・
そしてMちゃんに焼き上げてきたお皿を渡した。
Mちゃんは何度もお皿を触っていた。ニコニコしながらデコボコの風合いを喜んだ。
「平たいお皿には、バイキングみたいにおかずが載るね♩」ってMちゃんは言った。
「そうだね〜よかったね、M。」てお母さんも微笑んだ。
そしてお父さんが仕事から帰ってきて、隣に住むおばあちゃんもやってきて、おじいちゃんもやってきて、仕事帰りのおばちゃんも勢揃い。
みんな「あら〜よかったね!ほんといいね。」ってにこにこされていた。
おばあちゃんはスイカを切ってくださった。私にとって今年はじめてのスイカだった。
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すると「これも!」ってMちゃんがお母さんと作ったスイカアイスを出してくれた。
冷たくって甘くておいしいアイスキャンディーだった。
Mちゃんはずっとアイスを頬張る私をニコニコして見ていた。
「おいしいね〜ありがとうね〜♩」っていいながらちょっとうるっとなった。
今回私は今まで女川へ行って出会った方々の物語を文章にしてそれに絵を添えてまとめていた。
Mちゃん家族の事も書き綴った。その部分をMちゃん家族に見せた。
これを・・・
おじいちゃんがまず読んだ。「いいんでね〜の。そうだったかもしんね〜な。あのときはそうだった。そう思ったんだ〜。なんとかしんえ〜とな〜っ」て。
そしておばあちゃんも読んだ。おばあちゃんは大きな声で朗読し始めた。
「Mちゃん家族は・・・」最後まで読み終えて・・・「はい!いいんでないですか!」っていった。
「あのときはそうだった。洗濯物も歩いて往復一時間かけてMをおんぶして通たもんね〜。そーだった〜」ってお母さんも話出した。「そうそう、Tも言ってたね、アルコールランプで明かり灯したってね、・・・やっとここまでこれたね。この仮設に移ってからようやく落ち着いたね。」ってみんなが声を揃えて言った。「だっちゃ、だっちゃ」とおじいちゃんも言い、おとうさんもうなづいていた。
そしておじいちゃんは語り始めた。いろいろと・・・
「伝えたいと思っています。」と私は言った。そして「明日、この間言っておられた仕事場を見せていただく事はできますか?」と聞いた。
「いいよ〜、見にくっか〜。」とおじいちゃんもお父さんもうなづいて歓迎してくださった。
そして震災後通い続けた女川の復興を初めて見る事となった。
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by polepole-yururin | 2012-07-20 09:17 | 震災 | Comments(4)
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3月3日、宮城県の女川町からうれしい小包が届いた。
(このことはブログ2012年3月「思いがけない小包み」参照)
女川町立第一保育所に、避難していたMちゃん家族に、置いてきた陶芸用の粘土を半年経ってようやく作品になって送られてきたのだ。
箱を開けると、皿が4枚。しかしちょっとひびがいってて・・・先生はドンマイドンマイ!っていって作品を直した。子どもたちの作風を変えないように〜。
うれしく、この事をアゴラ子ども美術工場のアトリエで展示中の「女川保育者の震災」のところに、Mちゃん家族に事も書き加えて、しばらく送られてきたMちゃんとT君の作品を展示していた。
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そして4月、一日かけてMちゃんとTくんの作品をガス釜で焼いた。
丁寧に、ゆっくり時間をかけて温度を上げて行く先生。
この皿はちゃんと使える皿にしよう!・・・先生はいった。
保育者の方はお地蔵様や動物などの置物をテラコッタ用の粘土で作った。
でもMちゃんらは、皿を作った。
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ふと9月に訪問した二番目の避難所(Mちゃん家族は、9月に保育所の避難所から保育再開のために出ないといけなくなり、隣の避難所に引っ越ししていた。)でのことを思い出した。
まだまだ即席の生活。コップはベークのコップのみ。皿等もなかった。(Mちゃんは11月ようやく3階建ての仮設住宅に引っ越した。)
食器か・・・とMちゃんとT君の作品をも見てあのときを思い出した。(ブログ・2011年10月「女川で出会った方たちは今・・・」参照)
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テラコッタは、食器に不向きである。
でも先生は、大丈夫!ちゃんと使える皿にしてMちゃん、Tくんに持って行くよ!って。
焼き上がったテラコッタの皿に青の釉薬を塗った。
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そしてできた!濃いブルーのお皿。
何をこの皿に入れるのだろうかな?大事にしてくれるかな?
この間Mちゃんのお父さんに電話をした。
お皿持って行きますね!って。
お父さんは、「あ〜!あれ・・・はいありがとうございます。MもTも昼は学校や保育所にいっていますが、夕方にはいますから♩」て。
今日は、静岡の名物をいくつか買った。
茶そば、クッキー、わさび漬け・・・etc
保育所の先生にも♩
でも、みんな日々様子は変化して、あの時元気だった人が元気をなくし、あの時落ちこんでいた人が次を見つめ・・・まだまだ女川は復興途中・・・
八年計画の行方は・・・
明日女川へいってきます〜。
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by polepole-yururin | 2012-07-16 21:02 | 震災 | Comments(2)

あれから一年

我が家の庭・・・玄関先の沈丁花・・・まだ蕾。
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玄関先のクリスマスローズがやっと頭をもたげてきた♪
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今年はちょっと遅い春の訪れ。
二月の下旬には、ミモザも沈丁花もクリスマスローズも咲いていましたもの。
どうしたのかな・・・温暖化が北極の氷を溶かし、その氷が解けた水蒸気が雪を降らしたり、寒波をもたらすんだとテレビで言っていたけれど、ほんとうのところはどうなんだろう。
梅も確かに遅い開花。
去年の今頃、沈丁花は花を開いて、春のにおいを拡散させて私たちを喜ばせていたのに・・・未だ蕾。
去年の桜も遅かったけれど、今年もそうやって遅れるのかな~。
そんなことを思いながら、最近テレビでは震災特集を頻繁にやっているのに気づく。
その番組を見ないといけないように見ている自分がいる。
昨日は読売テレビで、石巻の壁新聞の事をドラマにして放映されていた。
石巻、渡波、女川・・・このキーワードに反応する私。
私が5回にわたって行った被災地は、この場所だった。
3月11日の震災当時から1週間の間をドラマ化していた。
私の知っている被災地は、震災1ヵ月後の被災地なので、当時の状況を自分ごとのように感じることは難しい。
大きな揺れ、何度となく続く余震。津波によって寸断されたホットライン。
安否確認の重要性。
確かに震災直後から、テレビや新聞で被災地の状況を一所懸命情報収集していたが、いつの間にか抜け落ちていた。
テレビで震災特集をやっていることを、被災地の方はどのような気持ちで見ていらっしゃるのだろうか?
フラッシュバックして心苦しくなる事だってあるだろうし、言葉にして話せない方だっているだろう。
PTSD・・・外傷後ストレス障害
一時心のケアと称し、臨床心理士や保健師が巡回し、吐き出させることを強いていたりしていたけれど、ほんとうのところ、心のケアってどうしていいのかもわからない。
今はアメリカからの心理学的なものが医療?というのか教育というのか、そんなところに入り込んでケアをあたかもしているように実施しているけれど・・・
心のケアはそう簡単には解決できない。
私も以前1年パニック障害で寝込んだ。
精神科にいる臨床心理士は、チェックリストに基づいて私に聞いていく。
しかしその対処は、安定剤という薬だったり、ストレスに関与するセルトニンを上手く使えるように調整する薬をだったり・・・
でもほんとうに心を安心できる状態にできるのは、みな同じ方法をとって緩和できるものではないし、その心の状況も、人それぞれ・・・
ほんとうに心が病むのは、みんなが退いてから、ほっと一息ついた頃・・・落ち着いた頃・・・
心のケアという名のもとでパターン化した対応が必要かどうか・・・
大事なのはパターンではなく、本当にその人に寄り添うこと・・・真の優しさなんだと感じます。
被災地支援もほんと難しい。
最初は確かに物資が必要。
でも未だに物資が必要かどうか?
私は、今本当に被災地の方に、私がやれることをやったのだろうか?と問いかける。
この行為は被災地に行った当時からずっとしている。
何もかも無くなった方への支援は、物資やお金のほうがいいのかもしれないと考える。
確かに震災直後に被災地に義捐金を送った。
でもその後、自分のやったことは、とりあえず事実を知ることであり、そこで自分のできることをすることだった。
何もかも無くなったのならその無くなた物をもって行けばいいのだろうと思ってしまう。
そして満ち足りた生活の保障をと私が関わった方へできる限りすればいいのかもと思ってしまう。
そんな時、いっしょに行ったアゴラの先生はいう。
「神戸の震災のとき、物乞いではないと避難所の所長が言った言葉がリフレインする。支援は、物を足すことではなく、心を添えること、自立を促がすことが復興だ。」と。
その言葉をこの1年自分に言い聞かせてきた。
でも物で満たされた今の私が思う優しさは、ついつい足長おじさんのように支援することを連想してしまう。
消費社会で育まれた成れの果てか・・・。
私と出会ったМちゃんのお兄ちゃんは、震災ですべてを失った。
震災前は、ゲーム好きなおにいちゃんで普段はあまり話しをしないようになっていた。
この震災でゲームを失い、家を失った。
でも9月の敬老に日にはおじいちゃんおばあちゃんに肩もみをしていた。そしていっぱいいっぱいはなしてくれる子になった。
震災は本当につらい出来事で、いろんな悲しみや苦しみを持ってきた。その状態は今も続く・・・
けれど、無くなったものだけじゃない。物を強制的に失った方が得たものは本来の人間的な優しさだったりコミュニケーションだったり、味わうことだったり、寄り添うことだったり・・・
お中元、お歳暮、クリスマスプレゼント・・・すべて物で与える優しさである。
私も主人の仕事関係に対して必ず行う行為だったり・・・
物やお金で見失った社会が、この震災であらわにされた。
なのにまだ同じ方法で支援していては、自立を支援できず、依存を援助していることとなる・・・
この震災は自然災害だとしても、たとえばフクシマの原発事故は人災である。
このことは、私たちに新しい生き方をするように警告しているように思えてならない。
東北以外の私たちが、犠牲を被った方へ支援するということは、まず自分たちの生き方から見直すことが大事なんだと震災から1年を迎える今ほんとうに思うのです。
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by polepole-yururin | 2012-03-07 17:09 | 震災 | Comments(7)

思いがけない小包

桃の節句を喜んでいるように、里山にあるアゴラの白梅が満開に咲きほころんでいます♪
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昨日思いがけない小包が我が家に届きました。
「笹かまぼこって書いてあるよ」って主人に言われ、すぐさま小包の宛名を見てみると、それは宮城県女川町からで・・・なんとМちゃん家族からの小包でした。
え!?ってすごくびっくりし、すごく興奮してしまいました。
というのは・・・
Мちゃんは私が5月に被災地・女川へ行ったときに出会った4歳児の女の子でした。
女川第一保育所の避難所に家族で避難されていました。
私たちは、自分たちの関われる力量を理解したうえで、被災地支援を一箇所に決めて、長いスパンで関わっていくことにしました。
その避難所が女川第一保育所でした。
5月にМちゃんとはいっしょに花を植え、アロマテラピーの石鹸つくり、いっしょに遊びました。
6月には、Мちゃんとおにいちゃんに夏服を持っていき、園でいっしょに遊びました。
8月にも、園で遊び、KAМEの翼人形を持て行きました。ちょうどその日はМちゃの5歳の誕生日で、これがМちゃんへの誕生日プレゼントになりました。
9月にはいり、第一保育所は避難所じゃなくなりました。Мちゃん家族は、その当時まだ仮設住宅に移ることができず、次の避難所へ引越していました。
その情報を園の先生から聞いていて、Мちゃんとお兄ちゃんに安心できる何か優しいものを送りたいと思いました。物資を送ることは簡単なんですが、そのことで済ますことができず、いろいろ思案し、5月に緊急の居所つくりとしてカメパオを作る際、カメパオの中で使ってもらう物を考案しました。
それがタオル地で作った抱き枕と、おくるみでした。
同じくらいの子どもを持つ親の気持ちから、抱き枕を二人に作ってもって行きました。
以前にくらべ避難所の大きな会議室がМちゃん家族の部屋だったもので、少し余裕ができたかもしれないと、Мちゃん家族にテラコッタ制作をしてもらったらどうかと思い、土ねんどをおいて帰りました。
「作ったらおくってください。それを焼いてもって行きますからね。」と言葉を添えて~。
そのときに、おじいちゃんから今何もなくなったところから少しずつ会社再建できるように動き出していることや、震災直後のお話を聞きました。
10月には、家族はやっと仮設住宅に移動できるといっておられ、ほっとしました。
ただその後Мちゃん家族からは、何の音沙汰もなく、粘土もおくられませんでした。
9月にいらっしゃった避難所の住所、電話番号は教えてくださいましたが、その後の移動された仮設住宅の住所はわかりませんし、連絡の取りようもありませんでした。
仕方ないな・・・
そんなことを思いながら、年末保育所に連絡し、先生からМちゃんのお母さんに差し支えなかったら住所を教えてもれるように連絡を取りました。
そして、寒い仮設のお正月を思い浮かべ、新しい下着と靴下と1箱のみかんをМちゃん家族に送りました。
返事はありませんでした。
その間女川の保育者の方々とは、時折連絡を取っていました。
今震災から私たちが関わった間のことを冊子にまとめています。
その一部にМちゃん家族のことも綴りました。
けれど、私たちの関わりはМちゃん家族にとっては、意味がなかったかな・・・とそんな感じでいたものです。
そして3月3日、忘れ去られているな・・・て思っていたМちゃんのおうちから、小包みが届きます。f0215179_22521758.jpg
笹かまぼこの詰め合わせと、ぬれた粘土、そして手紙。
感動しました。
粘土の作品は、まだ作りたての状態で、ぬれていました。だから梱包されていた箱まで湿っていました。
早々にそのぬれた箱をアゴラにもって行き、9月に粘土を渡された渋垂先生に見せました。
先生は、感動し、涙されました。
箱をあけますと、皿が4枚ティッシュに包まれて出てきました。
たぶんМちゃんと5年生のお兄ちゃんが作ったお皿です。
今作ったよって言わんばかりの状態でした。
9月から半年が過ぎてようやく届いた粘土細工と、手紙。
「ここまで時間が必要なんだ。やっと作る状態になったんだよ、余裕がやっと出てきたんだ。」と先生はしみじみ言いました。
お皿は、残念ながら割れていました。f0215179_22574740.jpg
郵送中に、ひび割れたようです。
でも先生は、「大丈夫大丈夫。」っていいながら涙してМちゃんとおにいちゃんのお皿のヒビを治していました。
ちゃんとヒビを治しても、子どもたちの作品には手を入れないで整える先生。
「先生お皿だね、お地蔵様とかお人形じゃないよね・・・」って私はいいながらふと思い出しました。
避難所でお父さんのプラスティックのコップにジュースを入れて私に出してくださったことを。
いまだ仮設・・・家族7人・・・生活の基盤・・・食器。
先生は言いました。
「このお皿をちゃんと使えるものにしよう。釉薬を塗って、素敵なお皿に焼いてあげよう!」
今日から2週間じっくり乾かしていきます。
静岡県掛川市千羽にあるАgora子ども美術工場のアトリエでは、9月より女川資料展・保育者のテラコッタ作品展を開催していましたが、そこにМちゃんとお兄ちゃんの作品も展示し、Мちゃん家族のことをさらに書き足しました。f0215179_22534949.jpg
ちょうど震災から1年です。
1年といいますが、被災地では、いまだ傷は癒えていません。仮設住宅・・・女川の町はいまだ個人の自由には行かない町つくりの上に町民の生活が置き去りにされています。
私たちはこれからも女川と関わり私たちのできる形でいっしょに前進していきたいと思います。
機会あれば、Аgora の展示を見に来てください。
Аgora 子ども美術工場 ℡0537-27-1428 
最寄り駅:掛川駅

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詳しくは私のブログの震災の項を読んでください。
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by polepole-yururin | 2012-03-04 22:54 | 震災 | Comments(4)

1月17日・・・17年目

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昨日、阪神淡路大震災の日だった。
あれから17年が過ぎた。
私も関西で、あの揺れを経験した。5時46分・・・下から突き上げるような大きな音、ド~ンと何かガス爆発したような大きな音とともに恐ろしく縦揺れがした。
揺れは大変長く、身体が硬直し続けた。
その夜は、成人式の次の日だったな・・・。
その夜は、なんだか知らないけれど、寝付かれず、何度となく目が覚め、神経が高ぶっていた。
寝汗をかきながら一夜を過ごす。
そして汗かいたな~・・て思った矢先の大きな揺れだった。
その朝テレビをつけると、恐ろしい神戸の光景が写っている。???・・・・
一応実家にも電話してみると、・・・電話は音信不通・・・つながらない。誰とも・・・
とりあえず仕事に行って准夜勤務をする。事態体は刻々と恐ろしい状態へと変わっていく。
死者が時間ごとに増える・・・
震災から2週間後、私が働いていたICUのナースと医師が派遣されることになった。
先輩から派遣された。その当時はどことも暖はなく、厳しい状態で寝泊りをし、食べ物も先輩たちは一緒に炊き出しに並んだとかいっていた。行く道も閉ざされていて大変だったといっていた。
私は1ヵ月後の派遣だった。
そのときは神戸港にフェリーが用意されていて、そこで私たちは寝泊りをした。
支援に行ったのは三宮の近くの小学校だった。
まだ小学校に避難されていた方がいっぱいだった。
食べ物もまだ炊き出しやパンなどが配られていた。
私は、小学校の保健室で、風邪の患者さんや胃腸炎になった患者さんの介助をした。
午後からは、精神科の先生と三宮の町を歩き、心のケアの巡回に行った。
県の先生と異人館の風見鶏のところを見に行った。
風見鶏は傾いていた。町のあちこちにブルーシートがかぶさってあってたくさんの花が手向けてあった。
まだ若かった私は、ただただ先生たちについていくしかなかった。
その後神戸にルミネリエができ、たくさんの亡くなった方の光をともそうと復興のシンボルができた。
いつしかそのルミナリエは、観光名所となった。
私の神戸も薄れていく。
2011年3月46分、東日本大震災が起きた。46分・・・!f0215179_9392076.jpg
恐ろしい恐ろしい出来事だった。その出来事にかつて被災を受けた方々が、まず被災地に乗り込んだという。
昨日のテレビでは、今まで以上にあの震災へ、厚く追悼の念を抱いたような場面がうかがわれた。
そして被災した方々を17年目にして取材していた。
17年という月日は神戸の方々にとってはあっという間だったんだろう。
みんな白髪が増えた。亡くなった方の写真・・小学生。もうこの子達は今20代のいい若者になっていることだろう。その写真に向けて一人生き残ったお母さんが17年前を語っていた。
神戸は2年で復興した。とある神戸のおじさんが話してた。
確かに町としての復興は早かった。でもその復興は、長田の町を総ざらいして未来都市を作った。
風が吹けば桶屋が儲かる・・・
都市計画もそうである。
合理化を推し進めることが急速化した。ルミナリエができ観光化した。
明るいもの、きれいなもので負を閉じ込める。
確かに前へ進むことは、忘れることやきれいなもので気持ちを変えることである。
でもほんとうにそれでいいのだろうか・・・
東北にルミナリエができることがいいのだろうか・・・新しい未来都市ができれば復興なのだろうか・・・
たぶん震災は、いろんな投げかけを私たちにしている。
表層をペンキで塗りなおしきれいになりました・・・てことではいけないよね。
それが戦争後の日本の復興、神戸の復興となった。
日本はすごい!すぐ復興にこぎつける・・・その生き様の中に、日本がしてきたこと・・・見てみないふりをしてきたものに向き合わないといけないときが来ている。今・・・
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by polepole-yururin | 2012-01-18 09:19 | 震災 | Comments(5)